出自不明

 


  生じて、すでに不安だった。だがまだその時点では苦悩ではない。それはまだ出自不明な何かに対する漠然とした不安にすぎなかったのだ。だがやがてそれらは徐々に輪郭を露わにして長い長い混沌の闇の中にわたしを引きずり込み、本格的に苦悩へ溺れさせていった。苦悩が私にとっての一快楽を担っていたのかもしれぬ面は否めない。そうして二十年余過ごす羽目になったわけだが、当初の私は苦悩の成り行きに楽観的憶測を抱いていた。いつかそれは快方に向かうだろうし、時間さえやり過ごせばいつかはトンネルを抜けるのだとたかをくくっていた。「いつかはトンネルの闇からぬけだせるはずだ」と。だが二十代になり、状況になんらの変化もない、二十代後半に入りやはり何も変わりない、そうこうして三十代へ、皆が仕事に精をだし、家庭生活を充実させようと頑張っているが、私は二十年前の私のままなんらの変化もない。状況は好転するどころか暗転していくのだった。ただ、重要な点として私には私の根底にあるわだかまりの正体を突き詰め続けることが使命となりつつあり、もはやライフワークと化していた。このことだけに約二十年の情熱と歳月をかけた。そうした結果、暴かれていくのはこれまでの投資話がすべて出鱈目で嘘だったこと。私の周りの人間はとうにそんな世界とは無縁で、アミューズメントパークや商業施設や、多種多様な趣味に投資をして生を謳歌している。彼らは同じ顔をしてそのまさか実に楽天的な生活を送っていたという茶番が明るみに出るのである。私が堅く苦悩のなかに耐えれば耐えるほどに熟成するはずだと安易に守った制約たちがただのガラクタだったことが明るみになった。錆びた鎖と何に使うのかわからない工具たち。失ったのは時間と経験と生に対する動機づけ。生きるに必要な多くの必需品をわたしは失っていた。ここ何十世紀までの精神的理想は目下人格の統合に向けての精度、それへの手法について試行錯誤がなされてきたわけだが、その努力も科学技術の人間能力の拡張による限界からの解放、これまでの歴史がそうであったように、、これまでの主体の統合的な理想を個人的なレベルの自助努力で促す時代は終わったのではないかと思う。
わたしにとっては精神的状況が今後どうなろうと知ったところではないが、ただ拡張に関してよりもむしろそれを拡張技術を用いて生の核に関してしか関心がない。意志の源泉が消えることだと考えている点などだ。


何も、かも、私が生み出した幻影、しがらみに過ぎないのだとしたら。空っぽで無駄に?拘泥した意味全てを根っこから斧で断ち切ってしまえばいいのではないのか。あの悪夢もまた私が信じるにおいて現実的になるのであって、なによりその主犯は首謀者は私ではないのか。
雑草が生い茂るなかを、ちまちまとひとつる、ひとつる選り分ける馬鹿馬鹿しい永久にやってこない瞬間を待つよりも、全てを焼き払ってしまった方がいいのではないのか。


事が主張されるというよりも、主張される雑言がその場しのぎの事となる。ただ時間というふるいにかけられるわけだが。僕は無味乾燥した牛の反芻し吐き出された枯草が風に吹き転がっているのに退屈しているわけだ。
世界は出鱈目で語られることが彼らにとっての映像となり、音となり、記憶となり得る。寄り合いの席で語られることが世界の全てを作りだしているのかもしれない。僕はもう降りるよ。聞き飽きただろう、いまに下車ボタンを押して次に止まる停車場で全ての関係性から降りるよ。すべて忘れてしまうんだ。さよなら。