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どの現在においても、常に極限状態にあり、極地に追い込まれている。

言葉も誰のもとへも届かない。

ただ虚しく中空にこだまする。

所謂俗世でいうところの理解者たちから自ら離れることで端からみれば最早誰も理解できない存在となりつつある。

身体は倦怠感や苦痛、絶望によってずぶ濡れで重くのしかかる。抗う力もなく、地面にへばりついているような感じだ。

自分とはこれ以上ない災厄である。

この苦悩の道を歩くことになったのは

単に思春期に虐められたからではない。当初はその様に考えていたが、それは勘違いだった。というのも他の環境でも同様の現象は生じているからだ。記憶もおぼろな幼少の頃から似たようなケースは少なからずあった。そして勿論今も継続中である。

状況を好転させるべく、下らぬ哲学書などに応えを探した。そして逃避によって自尊心を維持させてきたのだ。「わたしは優れた存在である。」と思い込ませ続けて、現実的な下らない、確かに下らないが、しかし必ずついて回る必要な物理現実に直面することを先延ばししてきた。

先天的特性が環境との齟齬を生んでいるにもかかわらず、その原因を外の環境に求めてしまった。ということである。それは私の外傷性からの防衛規制なのかもしれない。

たちの悪いことに私は一貫性に欠ける人間であることだ。なにひとつある一定の水準で、或いは明確な意図と目標を定めて生きていない。更にはその短所を価値ある態度であるように思い込んでいるということである。

 

とにかく具体性に欠け、全てが抽象的で何ひとつ熟達しているものがない。LD学習障害に近いのかもしれない。

決断、実行、がない、全てが保留状態でそれが良いことだと考えている。

 

そもそもが幸福か不幸かという類の一文節の概念化されたこと自体に何か適当ではないものを感じるのだ

だから、何に準拠すればいいのか、、どのように文節化すれば適当であるのか?わからないで居続ける。真理を見極めようとすればするほどにこれまでの概念は解体を余儀なくさせられるのだ。

 

あまりに傷つきやすく

求めているのにその時分に外傷的な何かがある、ともかく恐ろしいもの求めるものに滅ぼされる恐怖

とにもかくにも実感がない、感動もすぐさま色褪せる精神は雑多なもので溢れかえって手の施しようがない地下室の手記と同じ