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覚え書

 

信じているものを全部引き剥がしてしまったら…。何もかも極限まで拒んでしまい、そしてついには私すら捨て去る。
意志がそのように望んでいるのなら…。

運命は私を地下牢に幽閉しておく気でいる。逃れる僅かな猶予すら与えないつもりらしい。もう物心が付く頃よりそのようだった。悉く現象は私の前に横たわっていくのだ。一瞬一瞬に楔を打ち込まれているような感覚をおぼえる。篭った低い声が暗いコンクリートの壁に何度もぶつかり頭の中を反響する。「お前はずっとそこにいろ」と。命じられたまま雨漏りのする暗い階下で錆びついた冷たい鉄の椅子に腰かけて、どれだけの歳月を私は過ごしたことだろうか。

「私はそのような人間ではない」

 すぐにでも裸足で逃げ出し都会の闇に消えてしまいたいのだった。だがそんな気も、螺旋階段の上から「現実」が降りてくる気がすると、とたんに体が強張り血の気が引いて、手足がみにカタカタと震えとても決断できぬ。「現実」というものが何なのかは私にはよく判らない。外傷的で且つその先には確かに死があるのは直感できるような気がする。私を閉じ込める何か。外傷的な何か。すぐさま洞穴に逃げ込んで事が済んでしまうのをひたすら待つ、何万年も、何億年も待った。

 外傷的なそれは常に世界に横たわり続け我々を支配し続ける何か。我々を翻弄してやまない現象諸々と主体との関係性であるようだ。
なぜかくも困難とは乗り越えるべき障壁として、享受すべき対象として、健全なる精神への正統な過程であるなどと勇ましく謳われるのか…。人々は有難い徳として全幅の信頼をもって疑う余地なく礼賛するのか。
私にはわからない。
 毎日、毎日、来る日も来る日も太陽を拝み、灰になってはまた生まれ、生まれては灰になる。秩序をつくり秩序を壊し、また秩序を生み出しそれを頑なに遵守する人々。
 ただただ私にはそれ、つまり生まれる、或いは灰になる、なり得るための何かが欠けていた。
「私はそういうものではない」

 いつもそのように思えてならなかった。到底世俗的な存在にはなりえなかった。なれるはずはなかった。外傷的な何かは、そもそも誰もに嫌忌されているにも拘らず、絶対的肯定者の座にあることの矛盾が告発されることを免れているのである。これはただの未成熟者の不満か。孤独な逃避なのか?

反抗者達は確かに破滅的末路を歩んだ。だがそれこそ私にはむしろ剥き出しの根源的な意志のように思えてならない。
差異があるとするのならばその違いをもたらすものとは何か。
持ったものと持てぬものであろうか。何を?恐らくは幻想を。多くのものにとって現実は幻想以外の何ものでもない。現実とはヴェールそのもの。裏側には何もない。すでに失われてしまっている。そして我々は知っている。だが知らないふりをしている。人生のあらゆる瞬間に。眼を瞑る。彼等はその代わりに幻想を尊ぶ。
他者の幻想性を保つための生贄にされたものも少なくない。日夜繰り広げられる否定的な抗争である。沼地に杭を打つような不毛さ加減。勿論、私の中にも僅かにせよ、そういったものがあることを認めねばならないし、何より私の先天的な性質が他の関係性の中に飲み込まれる要因となったこともある。
明らかにわたしは幻想をもてぬもの、つまり現実性を保てぬものであった。
幻想は人が剥き出しの虚無を覆い日常生活を出来損ないか、或いは辛うじて創り出された物語として機能させている。そして物語は現実性を現実よりも良く絵本のように語ってくれるのだった。
現実はドラマ、物語のような現実性によって構成されている。
そして私は幻想性にあずかれない存在だということらしい。
この種の存在の惨めったらしさというものは、連中からすると何か通常持ち得る意味と全く違う意味で不快極まりないものがあるのだろう。それは殊に容姿の醜さとか、形式作法云々といったものではなくて。何かがありそうで無い、また無いようであるふう、とでもいうような核心に届かない不快さである。そういう側面が周囲との契約関係に見えない混乱を少なからず生じさせるのは間違いのないことのように思う。静かに佇むその姿勢とは裏腹に、瞳の奥には巨大な不安と極度の神経質さが関係の雰囲気となり、ぎこちない動作には単なる遅延、愚鈍さのみならず、何か性急な要請と激情が垣間見えるのである。人はそれが故に大抵が困惑して近寄りたがらない。まるで臭くて汚いものに接しているように同じ空間に居たいとは決して思わないらしい。激情を表立って出すことはないし、至って優しいとさえ思うことだってある。にもかかわらずその作られたそれであって本来のそれでないことの愚かさとその下にある煮詰まりかえり鬱屈した精神の塊を暗に感じざるを得ないのである。その怪しさ、胡散臭さをその精神の一体何を表しているのか、単なる欲求不満の類で片づけられるものではなく、それ以前の何か人間の核心に関するずれのように思われるのである。
真夜中の二時。何もない。時間ですらない時間。
彼等は煮えたぎった神経に耐えられずに同じ空間にいられない。引きつった笑顔で微笑むもまたこれ以上なく不快にちがいあるまい。自分だって自分自身に耐えられずにいるのに。どうして他者と分かり合えるものか。すぐに耐えられず部屋を出ていく人たち。
しきりに問う。問いは次から次へた新たな問いを生む。常に断定することはあまりに大きな仕事だった。しかし、多くの人は容易にして断定することで私を驚かし、かつ脅かした。連中はまるでそれが宇宙の真理かのように滔々といいきってしまうのであった。私には言い切れるほどの自信も実感も、実行する力もなかったので必然的に全ては保留された問いだらけになってしまった。まるでなにも整理されずにあるゴミ屋敷だ。そのうち私は私自身というものが耐え難いものとなってくる。まさに私にとって私自身とは片付けなければならない矛盾した対象だった。私は私自身のことを生存の第一の問題として捉えざるをえないようになる。何故私は私を問わなければならなかったのか。煩悶して漠然とした問いに応えることができず、仕舞いに滅入る始末である。彼の彼自身による彼についての関心や議論は終始結論に辿り着くことのないものにちがいなかった。荒野に一人ぽつんと佇んで照り付ける太陽の暴力に喉もカラカラでボロ布を握りしめて耐えている。ちょうどそんな感じが延々と続いた。もはや結論を出さない為に話をしているというふうでもある。某疾患に関する文献には「彼らは確信に至らないために探し続ける」のだと触れられている。問うな。しかし、それでも問いを突っ切ったところに何かがあると信じて病的に自らを掘り下げていく。惨めな人間であると思う。何故、そこまで彼が自分自身にしか興味を持たないのか周囲にとっては判然とはしないらしい。
知っているくせに。むしろ我々のコミュニティでは秘密を知ってはいけない存在として扱われる、持続させなければならない。私が自己を見つめることが他者にとって面倒な結果をもたらすものであり、彼等は全力でそれを阻もうと無意識のうちに実行してくるのであるが。私の闘いは彼等の意識との闘いではなく、明らかに彼等自身の知らない彼等、或いは知らない振りをした無意識との闘いに違いない。この手の難しさとは事実と隠された意味合いを突き止めることに無意識が主体の保護のため反抗して撹乱してくることにある。それも彼等は知らないというのが厄介なのである。
極めて健全であるものは真実そのものによって剥き出しには晒されてはいないということ。健全であるための条件として全く自己の構造に関心を抱かないことが最低限必要な前提としてある。内省に関しては目を背けることが機能的な存在ともいえるのかもしれない。故に真理は表され、認識される必要はほぼないというのが目下、当面の彼らの方針らしい。人は真実を必要とはしていない。だが意味によって剥き出しになっていく生を創造的な幻想で補うことも大変である。いずれ徐々に満たされないもの、極僅かなずれの根拠というものを問う瞬間が必ず訪れるのではないのか。その問いこそが人間であることの最たる特徴でもあり、病でもあるのだから。
もちろん我々にとって幻想がリアリティであり現実である、その風船に引きずられるかのように実体がある。身を委ねればいい?崩れ落ちる時のことを恐れている。
私はそれほどに恐れおののいている。最も弱い存在だ。
私を殺すのは誰にも容易いことにちがいなかい。そよ風や、残り香、足音、ふとした仕草、僅かだがそれだけで充分過ぎるものだ。あらゆるものが私の中で暗示として生起して私を混乱させる。意味の混沌に招き入れる。本当に馬鹿げた混乱の世界。
死が私の周りを飛ぶ。死というハエが群がり増えていく、不気味に近づく影にに取り憑かれ、私は一刻も早く一人になりたい。私の微量な意志の欠片が自由となるのは間違いなく一人のときであった。しかし、決して許されはしない。誰もが空洞を埋めるために追いかけてやってくる。彼等の意志が私の孤独を拒む。姿勢を拒む。背後から肩を掴まれ強い力で私を振り向かせ私の口に無理やり彼等の意志を詰め込ませる。
自分の中に世にある大量の物事が意志として土砂のように入り込んでくる。そうして私は埋もれてしまい、窒息寸前まで追い詰められる。私ができるのは彼等の意志に対して妥協点を探し出すことか、或いは発作的に自らの微々たる意志を強烈な怒りによって半狂乱に主張し、彼等の意志を押し戻し流入を一時的に防ぐことのほかにない。幾度となくこれが繰り返される。実に馬鹿馬鹿しいことだ。側からみれば、それは舞台上で同じ動きを繰り返す喜劇役者のやり取りに見えるに違いあるまい。だが私にはただただ苦痛以外の何物でもなかった。ただ、重要な問題は私にとって他者がどう考えているのかということよりもむしろ逆に、私にはほぼ意志がないのではないのか、というその疑問が私の頭を悩ませることだった。意志がない。私は私が一体何を欲しているのかわからないでいる。人が彼等の意志を私に埋めにやってくるのはまさにその為に違いないように思える。もし仮にそうであるのならば何故私の意志は他者のそれと違って欠損しているのか?必然的に私は意志というものの特性を何がなんでも探しあてねばならない宿命を背負っている。
いつも関係において他者にものを差し出される。他者はそのアイデンティティにおいて、あるいは意志において譲渡しようとする。契約関係に巻き込もうとする。だが私は受け取った振りをして拒む。施されることの何程のものかと私は思うらしい。実体を受け取っても関係する意味を渡されたと受け入れないことを地下で表明する。踏み倒してしまえばいい。
いつものように確かに堕ちた感触。はじめから堕ちている、鎖の外れた存在だということの確かな証明をいつも再確認するにすぎないのだが。他者のアイデンティティを。そのずれを嵌めることに失敗し続ける。いや、私の意志の如何に貧相なことか。私の存在の何と無価値なボロ布のような存在。僅かなパンのひと切れすら私にはあまりに大き過ぎるのだ。私には何故理解できないのか。私は豊かなものを受け取らない人間である。豊かだって?どうしてそれが豊かだと言い切れるんだ?
そうとも現実を構築するための幻想の杭だからだ。だからこそ人はそれを豊かな建設的で肯定的なものとして捉えることができているのだ。
だが、わたしにはそれが少ない分どのような施しも受け入れないという、他者への尊重を全く欠いた人間となってしまうらしい。私は僅かな私すら持てずにただいる。人間のこの惨めったらしさといったらない。義務の不履行。でも皆、わかっているはずだ。気づいているはずなのだ。責任の擦り付け合い、それは次の瞬間魔法にかけられたように幻想となり、自己を正当化する人生の写真立てとなる。うそぶいてやり過ごす。それが傍から視界に入るのを我慢しなければならない。知らない振りをすることができること。
われわれはまるで他者への気遣いのような振りをして、自らの効力が及ぶようにしておきたいと考えている。他者の存在の絶対性を信じるのではなくその不確定性により、我が責任においてそれに賭けるのではなく、歪んだ契約によって匿名の支配者でいることを欲する。他者を象徴的秩序へ告発し自己の不安を鎮静化しようと画策するわけである。それを組織の中で互いに暗黙の了解としているということ。それが決して悪いという意味ではない。ただそのような仕方でしかありえない。
誰もが支配者であろうとする。そんな互いの行動を監視し続ける組織であり続ける。最も最悪なのは誰もが囚人でありながらなによりも看守であることだ。
歴史は着実に改善を繰り返して膨大な手続きを生みだし管理してきた。手続きのための手続き。契約に我々の意志を代替してもらおうという我々に内在する癖である。
「失敗」が起こらないように慎重に物事を逆算してかんがえる。しかしそれこそが真の失敗、躓きなのだ。それを起しそれに関する意味合いを全く新たなものへと書き換え真の意味に到達していかなければならない。
自己をコントロールしようとして自己を変化させることは絶対に不可能である。それは全て表層を撫でるに過ぎない失敗となる。自己を変えるためには決してコントロールしてはならないということである。自己を偶然性にぶつけることでこそ新たな文節性が誕生するきっかけとなる。故に我々は可能性の全能さをもって偶発性を非再現性を期待している。
何故吐き気を伴った外傷性があるのか。それは一体他と何が異なる意味をもつのか。同一性に逆行するためか?それが何かわからないということ。
多くの不能感を感じる暫定的な人間たちは、日常生活が常に社会的自己についての些末な事案の整理や、処理についての関心とその対処を強いられる労務に忙殺された自己の状態に苦悩している。生体に課せられるなすべきことが押し寄せて辛うじて遂行する日々の連続。立ち止まってみれば、所詮生きているから生きているにすぎなという答にぶちあたる。そこで生じてしまっているのは理由が行為を追い越しているということであり、行為はその原因にそって必然的に実行されていることである。そのせいで人生は単なる義務の履行に成り下がる。倦怠と退屈とはその視点からやってくる。つまりそうではなくて実際は原因と結果の関係性は実のところ逆であり、行為によって新たに幻想の文節化を行い、想定外の現象よって真実を手に入れるべきである。意味をかけ替える。といったことが暫定的にしろ当面の間の答えで、人間の健全なる精神のモデルでもあり続けている気がする。
このような思考に陥ることは様々な面でみることができる、実際は行為によって事後的に生じたはずの自己であるが、私は自己の理由が私の確固たる原因のように感じているのである。つまり前もって自己同一性が存在していると信じている。実際は曖昧なもので保証なきものにもかかわらず。そのように感じているのだ。
何となく信じていることがあって、そんな気さえしていればぼんやりと幸福なのだと人は云う。明確に人は知らぬうちにやってのける。生の健全な責任を持って他者の幸福を容赦なく蹴り落とすその残忍さの限りにおいて、人はまた愛情深さを生むことが確かに可能になり月並みに幸福らしいのである。健全だ。
たとえ幸福がその性として他者を不幸にしてこそ成立するものだとしても、無意識の裡に他者が落ちぶれることに安堵感と自己肯定の感を得る。まず自己肯定するためにそれを実行し、演出してやっているという、つまり物事の良し悪しや事実など全く重要ではないといったわけだ。そこで他者の自己肯定の餌食になることに意志の力を奪われて気力を失ってしまう、押し潰されて契約的で反面的な生き方をせざるを得ない人間が出現する。
なにか私は自分の心臓を少しずつ切り売りして生き延びてきたような感覚すらある。責任を有さない。それが悪徳、背徳な行いのように思えるにしろ生き延びる純粋な意志の術に思えた。意志の貧弱に邪な何かがくっついた様相である。しかしそれは人間の長い歴史上のアイデンティティからすれば、限られた期間の暫定的なアイデンティティの健全さに関してのみ、それに対する反逆に過ぎない。むしろ反逆どころか反転して皆がそのようになっていくような気さえしている。かつての健全性はもはや古臭く我々の根源的な意志が求めてきたものへと一つ昇華するのである。
ダブルバインドの形式で求められた要求を、その要求に合わせる形で自己を演じることでその義務を果たすことが常態化してしまった。そして責任は腐ってしまった。否むしろ根源的なものを剥き出しにしてくれたのだ。
自己の連続にうんざりする。何もかもが定かではない話のように終わらせるわけにはいかない。脈絡のない曖昧な回想に浸ることはできない。記憶の押入れから「それ」を引っ張りだして世界の腸を掻き出して如何なるものか知らねばならないのだ。しかし、我々がごみにさえもなりえないという事実。ごみさえも残り得ない。何もかもが消え去るということ。無いということ。そもそも何も無い。残る存在という錯覚。それだけが私を永遠への志向と深い憂鬱へと招き入れる。
はじめはただぼんやりといる。そのうち全てはずっとあるように思えていた。そうこうしていたら徐々に揺らぎ始める。疑惑だらけだ。全て叩き込まれてきた世界に根拠などほぼ無いに等しいことを知り始め愕然とするのだった。しかし、その後も安直に生きよ、と「健全さ」と称するものはひたすら訴え掛けてくる。或る日の木洩れ日に包まれたような幸福感のうちに生のすべてが終わってしまえばよかったのにと思う。錯覚のうちに。
着目すべきは極端だとか、志向についてのバランスが悪いというようなことではなく、個性がそれぞれにあるだとかそういうことでもなく、つまり私はかなり人間特徴の典型的な傾向が強い存在だということ。
人間は自らの理由、或いは原因であると信じていたその表象をすべて剥ぎ取られその核を剥き出しにされた時に真価を問われる、といえば大袈裟だろうか。ともかく痛ましい存在を直視するだけの力量が我々にあったものか。最期の最期まで幻想を辛うじて保ち、私にはある、私は所有しているものがあると信じて死にゆくもの。人間に抱けるものとはただ幻想のみである。

ロゼッタ・ストーン石に記された記号は読み取られることなど望んでいない。ただ匿名且つ永遠であること、なにより痕跡であることを望んでいるのだ。意味されるものを指すまでも、その意味内容は全く問わないでくれと言う。それが意志だ。まったくもって純粋な根源的な意志なのである。
私は何も持ってない。持っていると信じられる幻想性が何もない。楔をうまく打ち込めない。そうこうすると私は断言できぬ人間になった。そんなガラクタのような幻想に責任を負うことはできない。人を騙すだけの自信がない。何故なら自分が信じていられないから。
他者の視線に身を置きたくないと思う。空気のような存在になりたい。全く責任を負いたくない、と。同時に永遠でありたいと思う。この存在に対する確信が抱けず全ては消え去ることに恐怖する。ゆえに象徴、記号として私を少なからず遺して置きたくなる欲求がある。確かに存在したのだという証しを。これらは矛盾しているだろうか。
他者の視線というのは実のところ自分の視線に他ならない。自分が見るようにまた他者も自分を見ることができるのだという想定に基づく。その想定が延長する。全ては見透かされているのではないのかという疑惑。
ある主体がリスクの受容に失敗し、それを社会的なものに対して責任を転嫁することにより、法的な改正、綿密な契約的な手法で、他者へそれらのリスクを一切受け入れることを拒むように要求するということ。兎にも角にも保証のあるもの確かなもの私の幻想を支えてくれるものに身を捧げるという人間特徴。
幼き頃より常に世界を踏み外してきた。世界の物語を上手く読み込むことができなかったのだ。それは先天的なものか。或いは他者の介入、認可などに影響されたものだったのか。何によって私は踏み外したのかを血眼で探し続ける。失ったものを取り繕うが如く。
幼少は学校へ通い、社会的規則に習い、科学という暫定的な世界観を学び、他者とのコミュニケーションを円滑に行うことのできるように部活動などに参加して社交性を身につけ、リクリエーション活動に積極的に参加し、社会貢献として奉仕活動に尽力し、健全な交友関係を構築し、勤労を尊び、健全な恋愛を経てのち結婚し、子をもうけ、愛情を持って子育てをし、思い出に残るような家庭生活を送る。アルバムをめくりながら思い出を語らい、手厚い年金制度と医療保険のもと実り豊かな人生の老後を静かに迎える。死に際に見たくもない醜態と何がなんだか理解できぬ微睡み、混乱から目を背け、「私にはあった。」親や家族との団欒の時や友と語らった夢や社会のために遮二無二働き僅かだが財産を築いた。「私は有したのだ。」と思いたい。そうとも彼は正しく生きた。健全に生きた。
だが「これが人生で、それを実行することがあなたの責任なのです。」と役所で窓口の職員から応えられるとき私は納得できない。何がなんだかさっぱりわからない。消されることの恐ろしさに震え慄く。
私はこれまで純然たる責任などにお目にかかったことがない。どこに行こうが周りを見回してみればどのような物事もたとえ日々の些末な雑務から国家的な政策にしろ、人々は責任を委託してしまっている存在でしかありえないようにさえ思った。彼が行動する理由を尋ねると必ずやそこには法や習慣、契約、理念、感覚、生理現象、科学的根拠などが引用され引きずり出されてくるのだ。「だから行った」のであると。「故に正当化されるのである」と語る。その理由はまったく人々個人とは関係のないどこかの図書館からひっぱってきた本のなかの一行であるかのようだ。そういうしかたでしか行動とは生起させることができないのか。行動はともかくその根拠を生煮えの理由としてやってくる。ならば自由はないのかと問われる。そうではない。全く行動をせずに膨大な理由から根拠となるものを探しつづける。世界をより機能的に分節する試行錯誤。つまり我々が自由なる概念を生み出せるようになったのは行動とその理由に、行為と結果の間にずれを実感することが可能になってからだ。ある理由ではなくて、また別の理由によって実行されてもよいのではないかというような思考がそれである。可能性の中で自由であると。
責任なるものについて、はじめはただ原因、要因と結果の連鎖によって、つまり現象によって説明できると考え、責任概念は存在しない、社会的営為のなかでただ法規的に責任が措定されているだけだと思った。しかし、行為を実行することにおいて責任というある種の実感なるものが存在することを確認した。そしてそれに外れた行為足り得ぬ類の人間たちが存在することも確認した。その時点ではまだ責任概念は肯定的な意味を有している。だがまだ先があった。我々は我々自身が我々の責任を返上するため道具を拡張、生み出すことによって責任を皆無とし存在を代替するように目論んでいるように思えはじめたのだ。どちらにせよ統合するはずであると。
私が欲するのは、私自身が何かの理由にならないことである。その逆の形式、私が誰かを理由にしてゆくことは微力な意志の私にはいつも不可能なことで一方方向にのみ物事は形作れる。私は私というアイデンティティの限界を、或いは境界を他者に認識させたくない。
多くの人が悶々として賭ける相対的な快楽や鍍金のような幸福ではなく、そうではなくて実際が関係性がどのように表わされるのか、実際がどのように表現され得るのかという問いを知ること。また問いであり続け、またできることならば私という存在が何者かに代替してもらえればいいということも思う。一切の責任さえも負わないでいられれば実にそれはこれ以上なく理想的であるということである。一切の責任を負わずに済むものならば。それは即ち私という境界がなくなってしまうことであるが。
存在とは核心的に責任を拒むものである。そう確信する。

僅かな真理の断片がぼんやりとはっきりしてくる。だがそれがまだ他の断片とどのような関係性を持つかは断定できない。なにか宇宙の闇に広がる星雲のような光景である。
ハンマーが投擲されたあとの叫び声には人間の病的な意志の力を感じる。あの咆哮がこの人間の鬱屈した屑の可能性の発散ように感じられるわけだ。あと僅か数センチ。気の遠くなるような歳月をかけ地道に歩んできた忍辱、押し潰された存在である我々の。それがもうたまらない。我々の意志そのもののように思えるのだ。
現実に存在しない。彼の中に時間は存在しない。彼は常に取り残された永遠的な存在だ。時間に存在しない。持続していない。それが我々の核である。通常ならばその上に時間の持続性を被せて生起させる。我々は現実に存在するという実感、確信を得るわけである。時間もまたリアリティに他ならない。
何故に腹に嘘を抱えてコミュニケートしなければならないのか、それが我慢ならない。自らが原因を措定できないということ、責任を負わないということがまた地獄をうむ。
「僕は空白に押し潰される。ともかくも僕は生きる理由を作らなければならない。それこそが紛れもない健全な幻想なのだから。何でもいい。その押し寄せる空白にゴミでも何でも投げつけて穴を塞がなければ」。
また空白の周りには無数の砂塵が舞ってすぐさま入ってきたものを汚してしまう。素朴で純粋なものに憧れるがそれに触れるやいなや、それは私の手垢のためにもうその澄みきった様子を失い全てが台無しになってしまう。丁度、子供が成長してその無垢を喪失し大人という台無しな存在になるように。
存在は脆弱なものだ、相対的な視点に支えられているに過ぎないからだ。何かを所有していると私は思う、だから私は確かな存在だと。しかし、それはまやかしだ。持っていると思い込んでいるだけで、実際それはすでにその視点は失われていることを含んでいるはずなのだ。私は理解しているだがこのズブズブの絶対的な支点のない足元を確かなものにする為それらの外傷的で無意識的な事実に蓋をする。そして幻想の杭を無数に打ち込んで我が人生が沈み込むのを食い止めている。まるで自分の存在は遠いところからやってきた負債の結果のように、またその負債を新たな負債を拵えることで取り敢えず快適で健全な日常を送れる、という嗚呼!新たな負債はクリエイティブな行為だといいきる。そうかもしれない、いつしかそのクリエイティブの極みこそがこれまでの全ての負債を返済する力をもっているのかもしれない。でも私はそれに加わるほどの精神の健全さを持ち合わせてはいない。
全くだらしない人間である。人に提供される以外、人に与えるだけの余力を持っていないというのは愚か過ぎやしないか。でもきっと彼らだって同じさ。この剥き出しの光景を見たならば彼らだって全身の力を失って膝から崩れ落ちるに決まっている。人はリアルな焼け野原よりも幻想というリアリティが消え去るこの曠野をまったくもって恐れることだろう。
現実とは現実性でしかない。持っているという感覚。洋服、住居、金銭、家族、友人、肩書き、経験、物語。「私は所有している。」「私には可能である。」私、この最も特殊で格別な、否、自らにとって格別でなければならない存在。ともかくも自己を肯定してくれる幻想こそが何より俗に虚構と呼ばれるものであれ、現実と呼ばれるものであれ彼らにとっての現実そのものなのである。我々は常に現実が崩れることを恐れ、すでに失っていることにさらされないためにも、幻想、現実性を創出しつづけなければならない。
皆から恩恵を施されるにも拘らず、微塵も感謝しない。それどころかはねつけるように太々しく毒気を吐く。人の善意のような施しもまたその実、眼下には悪意を動機としていることなどざらであるのだ。
もし、このまま何も自らの思うことなしにただ生きることだけで全てが終わってしまったなら後悔以外何が残ろうか。ただ生きることのなかにある自らにとって確かなものが生起するのであれば問題ない。しかし、それらは暫定的な幻想に過ぎないことをもう知ってしまっている。こうなると後戻りはできぬ。中途半端な飲み屋繰り広げられる世間話に溜飲を下げるなどどうしてできる芸当だろうか。
しかしだからこそ、この私やそこらの現象がまさか幻想であるはずがないと信じることができることはそれ以上に幸福なことはない。
これが人生なら。これが人生なのであるならば。
仮に恋愛をしたとする、それはやはり薬物的な意味でしか消化できない。そもそもの生き方にそういった手法、不安に対する打ち消し行為の過剰さが表れているのである。
「君のことは絶対忘れない」という。そう言明するのは正しく忘れるためである。喪の儀式とでもいうやつか。私はそれを上手くやってのけることができない。だから心底恐れているわけである。この幻想を。何もないのだということを。何らかの手法をもって生き残りたいと、確かな存在であると感じているのだ。行わないことによって、その想像段階の全能感のままに永遠を永続させたいと願う。
人とは誰もが他人の首根っこを掴んで地面を引きずり回し、頭を擦り付けて汚さなくてはいられないらしい。それが自らの存在の優越性を何より証明することであるし、真の自己肯定、幸福感を獲得する手法なのだ。これは全く驚くに値しない。誰もが知っているが口外しない事実なだけであり、それを知らないのは単なる生物的でない存在であるともいえるのかもしれない。真に他者を憎しみ貶めることのできる人ほどまた鮮やかに深く愛情を示し得ること。誰も憎めぬものは誰をも愛せぬ。誰もがその本性を持ち合わせているのだが、実際にそれが表沙汰になることはない。誰かの劣等性が我が優越性を示してくれる。本当に嫌気が差すが、こうやって痛ましく外傷的ななかで生きるしかないのだ。蹴落としてまったく素知らぬふり、
私には自らの周りで起こるあらゆる取るに足らぬ些細な物事、現象が死や、不幸の前兆として暗示のように確信をもって思われるのだ。たとえそれが他者から見たときに歪んだ視線であったとしても。全てのシグナルが不吉な或いは私の破滅を予告したものであると解釈せざるをえないようにそのようにしか見えないのである。そうなるともういてもたってもいられないのだ。すぐさま薄汚れた快楽に身を委ね嵐が過ぎ去るのを待つ。ただただ瞬間をなき者とするかの如く戦慄しながら強迫的に享楽に耽溺する。
恐怖、畏れ、慄き、倦怠、絶望、享楽、堕落。
何か匂ってはきやしないか。「そんな匂いは気のせいだ。馬鹿馬鹿しい、もうそんなことより作業を進めよう」そう云うかもしれない。しかし「やっぱり何か匂うな」と。誰かが洩らした何かの存在を知らないでいられるかなと問う。この腐った肉塊を隣に作業を続けられるかなという問い。いまや鼻をつんざく匂いが剥き出しになりつつある。「蓋をしろ」。臭くてたまらない。嗚呼。もう耐えられない。それを認めなければならない。直視ぜざるをえない。クソッタレ。「何やってる、お前!鼻をつまむことこそ生きることだろうが。さっさと動け」などと罵声が飛び交う。
ついには〈お前〉だ。いや、ここで漸くオレは元の名前に戻ったんだ。そもそも初めから彼らにとってオレの名など存在していなかったんだ。匿名者、名も意志も無い人、非存在者であると彼らの腹の底から私の名が聞けたというわけだ。それは意志薄弱ながら自尊心を多少傷つけるものではあるが、真実が抑圧されることなく現れた意味で良かったのかもしれない。
契約の力に翻弄されたから、その同様の領域で競合することなく契約を違う形でつまり、契約が別のものを指し示すことで効力を発揮するところとを、契約自体を示すことで暴露してしまい効力を無効化させたいと願う。
私が嘔吐するのは人が私に押しつけてきた彼らの意志。飲み込めなかった意志の塊が逆流して一気に噴き出すのか、あるいは僅かな私の意志の憤懣として現れるのか。
飯を食っているのだろうか。気分を食ってるんだ。話しているのだろうか。気分を食っているんだ。買い物をしているのだろうか。気分を食っているんだ。映画を観ているのだろうか。気分を食っているんだ。それらすべて余さず現実性を食っているんだ。リアルにみえるものも、虚構だと思っていることにしても、結局現実性を食っているということなんだ。所有していると思っていることも、できると思っていることも、そう確信することで現実性として感じていられるんだ。或いは自らにとっての現実にするために確信手に入れるわけである。どうしてもそれができぬ。
私が人々の看守のように、また人々は囚人である私の看守なのだ。つまり看守でありながら囚人であること。囚人であることを可能にしているのは何より私が看守であることなのだ。私が見るように人もまた私を見ているという飛躍できる認識。それが私を戦慄させる。
何よりできないということが重要なのである。つまり既に失っているのだ、ということを知っているか否か、ということが重要なのである。何故ならそれこそが人間の本来の姿であるからである。単に厭世的であるとか、冷笑的であるとかそんなことはどうでもいいことである。要はそれは如何に生じているのかを知ること以外に何もないからだ。確かに剥き出しに晒されてさぞや寒かろう、と思うのだろうが、自らこそがそれであることを自覚する存在であることを知らないのは甚だ虚しいことだと思うのである。それを知ること、それこそが人間の核心的な意志に他ならないからだと。
そもそも我々を掻き立てる意志はあらゆる現象の延長線上に意志自身の身元を常に求めているのだということである。となれば意志自体が問いそのものといえよう。
今に至って、いや今更ながら、言語とは全く物事について表現する道具としてはほぼ扱われてはいないという事実を強く意識させられる。たしかに論理性とは存在している。ただ言語がそれを表現するために援用されているかといえば決してそうではない。むしろ組織的な、或いは契約的な領域で生じている個々の力関係に完全に利用されているといえる。
現在とは可能性の上にあるつまり過去未来といった可能性の連続に存在する。可能性を可能にするのは別に言語ではない。自己が世界と別つ存在である時よりすでにそのようにしてしか認識できないのだ。
雨雲が覆い続ける。遠くを飛ぶ飛行機のエンジン音。便器のふちの汚れ、吐き気。見知らぬ土地をはしるタクシー。百貨店の高級フルーツ。駐車場のコンクリートのひび割れ。あれは夢かそれとも現実か。私が映し出したにすぎぬ幻か。狭い階下で静寂を突き破る学生の声。笑い声か怒号か。家に電気ともっている。子供が乾いた音で手を叩く。道路を走るタイヤの摩擦。雨雲が透き通り濡れた路面にぼんやり日の光を落とす。真夜中のヒールの帰り路。トンネルの余韻。余白を埋めていくこと。可能性のだだっ広い倦怠。ただただ、続いていく倦怠。日常。くだらぬ日常。ただ続く日常。
誰もが昼間は許されざる時間である。目下皆が労働に勤しんでいるからだと思い、人目を避け震えながらカーテンを引いた部屋のベッドの片隅でやり過ごさねばならない。夕方になれば少なからずひとが帰途に着き始めるからその後ろめたさから憂鬱である。夜は全能である。
誰もが同じように存在しているはずなのに全く異なる世界に存在して関わりあえていないのではないのか。同じ距離ですれ違い続けているに過ぎないのではないのか。同じ駅で同じ電車に乗り合わせたに違いないはずなのであるが、それは我々がそのように錯覚しているのに過ぎないのではないのか。誰も彼もが他者のことを全く誤解していて、勿論心にも誰もいなくて疎通する気もなく、ただ同じことを幾度も意味もなくただ何度も声として行為として繰り返し発信し続ける様は入り乱れた過剰で無意味な情報以外のなにものでもないのではないのか。無関係で虚無的な世界。効力を発揮しているかのようで無力な行為たちが、ただ生み出されては消えてゆく。
この暗い地下の牢獄から出たい
この灼熱の砂漠から解放されたい
我々は「我々の存在に関する一切の責任を負わない」と宣言する。
言葉の価値はただ契約的な効果に拍車をかけあるだけであってあってないようなものである。しかしながらその形態でこそ機能している。
多くの決まりきった言葉たちが掃き棄てるほどに無価値である。それはとっくに腐りに腐りきって無味乾燥した塵のようになっている。よく知られていることである。別に特段それに限ったことではなく、契約事の暗黙の約束事は形式さえ守られれば中身など実際には必要ない。形式が守られることに意味がある。どんなに不毛な儀式であれ安心させてくれる呪術的なことの保証が与えられるのならばたとえ社会が滅亡しても、喜んで生活の全てを犠牲にしたって構わないと思う。まさにその為に死ぬ。一切人が滅んでしまっても整然と墓石が並んでさえいるのであれば何ら問題ない。物語があるのであれば食べるものもいらない。死ぬほどに空腹でもマッチ一本で物語の世界に入り込めばそこには暖炉があり、スープや七面鳥がテーブルの上で幸福を用意してくれるはずだ。まさにこれこそ人間の幸福でありながら不幸でもあることらしい。
堕ちてはいけないと思うと堕ちてしまう。落としてはいけないと知ってしまって、落としてはいけないと自らに言い聞かせながら、結局落とさずにはいられない。故意ではない。それは磁石のように吸い付けられるように強力で無慈悲な力をもって地面に叩きつけられる重力のように強烈な抗えぬ制約なのである。まるで運命がそのようであるかのように。
人生は幻滅に溢れている。新たな幻想を生み出しては古臭い、耐えるに値しない幻想を破棄する。生成しては長ければ数千年、短ければ一瞬にして無価値化しガラクタに成り下がる。毎日際限なく出続ける生ごみのようである。主体は常に自らの寄る辺を探しもとめる水面浮かぶ浮き草のように求め漂い続けなければならない。長い人生という洞穴の中で幻想の灯火で照らし続けながら歩んでいくほかない。上手に騙してくれるものに高い労働として対価を払うし、また自らも上手に騙すよう努める。私の嘘が何処かの人を幸せにしてくれているのであれば安いものである。旨く騙してくれればいい。今日では安全に何のリスクも負わずに騙されたいという欲求が強く現れている。皆が虚ろな眼で懐疑的に黙ったまま頑なな姿勢でつったっている。日々巧妙に消費者の目を誤魔化しつつ一定の効果を代用品に頼り、絶対的権威者が保証を与える宣伝文句。しかし、騙しているから詐欺と同義だなどということでは決してない。むしろ消費者は上手く幻想を演出してくれるものに、自らの人生を託したいと願っているのである。つまりは互いに協力して支え合う補完関係にあるのである。
重要なことは何を信じるかではなく、いかに信じるに値するだけの状況を相互に演出することができるかだ。
いかなるものでもいい。信じることのできるものがあるのであれば、何も高価なものでなくともいい、汚い玩具であろうが腐りかけのバナナでも、それに群がるハエでもいい。それが主体に幻想を与えてくれるものであればたとえ灰であったとしても我々は喜んで食べる。
我々は知っているはずだ。誰しもがすでにこの一瞬を失っていることを。最愛の人と名づけられたものとの語らいや他者が羨望するものを手にしている時でさえ常にある裏側の虚しさを抱えていることを知っている。であるからこそ我々は必然的に幻想をもってそこにリアリティを見出そうと企ててきた。写真立てを眺め回想する。ずっとその様に生きてきたのである。リアリティへの志向は裏を返せば永遠に対する志向性の顕れでもあり、自らのアイデンティティへの保証といえるだろう。永遠に失われるものに対する失われたものであるという直感的な確信とその記号化と編集、記憶の再現による永続的な保存。
我々は生まれてこの方ずっと幻想の中に物語化された中に生きている。多くの雑多な現実情報から重要な要点をぬきとり、自らの編集処理によって解釈を行っている。現実は文節化された後の二次的な世界に過ぎない。だからこそどのように世界を見るべきであるか考え続けている。
良くできた幻想というものはリアリティを持ち得るのである。そこにこそ現実性が生じる。「思い出作り」のために休日は家族でどこかへ出かけなどということがある。どこかに行きたいのではなく、「思い出」を作っておきたいということらしい。「思い出」を作るということは既に味気ない実体そのものをみずから編集して永続的に保存していくという意志の現れが垣間見えている証拠である。現実そのものにはさほど現実的なもの、魅力を感じることができないということを示している。主体によって編集され、意味づけされ、物語化されたものにこそ現実性が宿るのだと。実際、現実がどれだけ惨めったらしいものでもそれをうまく幻想に組み込むことができるのであれば、それは全く惨めではないのだ。だが、どんな熱狂もその後の余韻も家路について用を足すときにはすでに全ては便器の淵の汚れ以上の何ものかにはなり得ないということを、頭の中の視線をずらして忘れ去りたいと思っているのである。汚らしい虚しさ。
一番美味しいのは想像段階でそれをいかにして食べようかとするときである。
可能性の世界に逃げ込みたかった。それでしかアイデンティティを救う道がなかった。いくら心地のよい逃避的空間によって自らを変えようと考えても不可能だった。全くの無力だった。寧ろなにもかも一貫性をうしなって支離滅裂なバラバラのまとまりのないものに堕ちていったように思う。根拠を欲しがった。可能性の世界の中に。きっと役立つと思って、でも違った。見れば見る程に対象は粉々になってしまって、取り留めなく何が事実であるかその根拠となるものも全てが揺らぎ始めた。いわゆるゲシュタルト崩壊のようなものだと思う。結局のところ行為だけが真の救いたり得るのだ。何でもいい没入できるなら。信じていけるのなら幻想に身を任せれば健全でいられる。そのように違いないらしいではないか。しかしどうだろう、行為について。私の行為は純粋な行為であればある程に、他者との断裂を経験せざるを得なかった。多くの外傷を負わされずには済まなかった。またしても私は純粋な私から押し出されて、私自身の疎外者となる。意図の疎通を全く不可能なものにしてしまう。動物的な感性が足りないのだろうか。何かが違う。他者と何か。重要な何かが。それがわからない。信じるためには何かが足りない。私そのものである為には何か非常に重要なものが私自身の中で欠落しているのを発見しなければならなかった。
どうだろう。彼らの世界に内在し機能する幻想に私の表徴を侵入させてみたら彼らは一体何を思うのだろうか。しかし私にはあらかじめ答えはわかっている。大衆を体現している真の人間たる彼らはそうとも、最もこれ以上なく単純に明快に真の人間としてとるべき範を示すが如くいままで通りに反応することだろう。「理解できない」と。結局、私はうんざりすることだろう。しかし、重要なことは彼らの根底には私が体験しているこの内在的構造が確かに同様に誰しもが所有しているということだ。これが何より私を復讐心によって歓喜させる。私の言葉も意志も常に彼らには届かずに空をきり続けることを常としても、きっと最後の最後その時にこそ、ベッドの下からそれは彼らの内に突如として現れるのだと。勿論、死の床ですら幻想を頑なに保ち得る人々も事実いる。しかし、内在的に最も幻想がついに事実を覆い隠しきれずに崩れ去り荒野があらわになるかもしれないであろう微かな瞬間が確かにそこにあるのである。
そうとも私は常に他者に従属し続けている。おそらくは押し出されてしまった私、疎外された私とは私の中の他者なのだろう。
信じることが断定に起因するものならば
それは行為によって行なわれるものとして考えていいのだろうか。単純にそうとも言い切れない。というのが行為が行為たり得ることが必要となるからで、思考がその足を引っ張ってしまう。行為が行為たり得るためには、行為が行なわれるだけでは不十分である。何故なら行為に主体が相応しいかが問われるからだ。幼少の頃、何をするにも物足りなさを感じていた。物事に物足りないと最初は思ったので、対象を取り替えては新しいものを試してみた。しかし、全く満たされるどころかますます虚無感と違和感を覚えるのであった。そして実際にはその物事が私にとってどのような価値を持ちうるものかというよりも、逆に反転して物事に対する私自身の頼りなさを感じることを発見した。それを咀嚼するだけの消化するにたりるほどの何かが自分にはなかった。自らが対象に対し試される存在であり相応しい存在でないという事実。美味いものを食べること、買い物をすること、談笑すること、生活するということ。それらすべてが私のなかでは生煮えの近づくことのできない何ものかであった。
思考というものにある種の断定を与えてやることができるのならばそれは信じることが健全な形をもって可能となっているのだろうが。断定するためにはそれだけの認知に値する根拠を有する。それはそれだといいうるだけの根拠が。
私は私自身が何を望んでいるのかさっぱりわからない。私が私の人生を生きているという感覚は乏しい。起こることが必然的に起きて私の意図や意志など無視して勝手に物語の展開が進行していくのではないのか。そこに微塵も私の意志が介在することはあり得ないように思えた。故に、私は疑問に思った。なぜ私の人生に誰も保証を与えてはくれないのか。なぜ運命は責任を負ってくれないのか、と。全くもって主体性とは真逆に位置しているといえるのだろう。
現実とは紛れもない変化だ。それもそれらは常に主体にとって受け入れがたい外傷的な何か、それは主体に受け入れるべく押し寄せてくる。
大体、何が重大で、何が重大でないか判断すればいいのか全くわからない。全ては保留の状態だ。人と私が所有している時間は全く異なる。
きっと何か支柱になるものが欲しいのだろう、何かの徴、証し、が。私の運命を保証してくれる何かが。だからこそ確かなもの、手堅いものを欲するし、それが何も見当たらないのであれば適当に書かれた情報コラムでも星占いでもいい。でもどうだろう、それが示されると同時にその徴に対しての疑念が湧いてくること、そしてその徴を受け入れたくないという感覚を覚える。必然に対する抗い。自由を奪われた感覚。たとえ科学的信頼のおける根拠が示されているにせよ、取るに足らないものにせよ、どちらにしても満たされるものとはなり得ない。そのような幻想の強度もさることながら、突き詰めるところ結局は幻想は幻想でしかないということであり、そこで埋め合わせるものがないのである。
何故生きているのか、死なずにいるから生きているに過ぎないのではないのか。
まるで病人のような生活を毎日送る。朝になってもカーテンを閉めたままベッドの上で横たわり続ける。
物理的には私というものが僅かながら存在しているのだろうけれど、その実存在としてはほぼ存在していないと同じようなもので、誰の耳にも私の弱々しい声は全く届かないようだった。自らの脆弱さを呪った。
私には他人の気持ちがわかるということが何故かとんでもない不幸事のように思えてならない。そのように確信する。契約に巻き込まれてしまうから、いっそ全てわからなければとも思う。では他人の抱いている思考が全てわかるのかといえばわからない。勿論わからない、何処まで掘り下げたところで核心には至らないことは自己にとっては甚だ遺憾で確かに我慢ならない。永遠に真なるものを掴むことができないという悩みがあり続けるわけである。しかし、一方で手に取るように対象がそのようにしか見えないということがあると確信が得られるとき、私はまたしても居心地がこれ以上なくよくない。他人が自分の中に入ってくるような、何故奴らの存在を私は私の中から消し去ることができないのか、何故奴らの思考の残像は私の中に留まり続け、私の心の中を激しく掻き毟るのかと激昂し腹立たしく思う。こういうとき私は一刻も早くに他人から距離を置きたいという衝動に駆られるのである。
それがそれである。それ以外の何物でもあり得ないと見えることは、かつて私に降りかかった不幸の諸々を可能としてしまった。それが為に私はずっと一人同じ暗い地下室の独居房に暮らし続けているわけである。
たとえば、偏に幻想と言っても、あからさまに胡散臭く滑稽でありながら、その反面でその激情、力の異常さに唖然とさせられ恐怖さえ覚えることもある。たとえ信じる対象が如何に無価値で空想的なことであろうとそれを情熱的に盲信することの力の異常さを思い知らねばならないこともある。
しかしながら、信仰と言わずとも、生活の多くの部分にそのような一種の形態の論理が潜んでいる。つまりは当然のことながら信仰的なものがそれに先立つのではなく、一形態論理性が後々に固定的な形をもって信仰を位置づけている。
その形態の論理の本質的なところは物理的な実体として存在しないものであっても、主体にとって内在的な実体として形成され、それに対する従属、服従、祈願、によって関係する。主体にとっては
人の心を欺き、その尊厳の核を蹂躙しても尚表面的な契約の価値が永遠に持続しているかのように振る舞い続ける、人が欺かれたことをたとえ知らずとも私ひとりが欺き続けることの罪を罪悪を持ち続けながら耐えている。皆はとっくに帰ったのに砂漠の真只中でひとり灼熱の罪から解放されず、否自らすすんでとどまり続けるのである。煮えたぎった地獄の釜の中で耐え続けることが自らの何か、実にくだらない自尊心の滓のために表面的な貞操を守り続けるのである。どうせ捨てた人生だ、1分も一生も同じようなものなのだと、すすんで手にしないことを宣言することで何か最良の契約を手にできるような罪悪感を伴った期待。それでも、と言って歩き続ける。ボロ布にしがみつく。しかし、世界という領域は二つある一つの世界で健全なることもまたもう一つの世界では不健全なのではないか。一つの世界での罪悪なるものももう一つの世界では功徳なのではないか。
我々自身が我々が扱う愛玩物のように生きていく。単に愛でるということ、は所有するということと一体何が違うのだろうか。それ自体の自立性は尊重せずに自らの意志でそれを支配する、自らの装飾として華を飾るための全能的な満足感。そこになんらの責任をも負わず。汚いものは頭の隅に押し込んで見て見ぬ振りをし続ける。それどころか更に耐えられなくなれば、それすら暴露してその真の外傷を受け入れまいとする。生活は彼らにとって存在していないものも同然だ。彼らの網膜には生活の痕跡も綺麗に映らずにいられる。
死の上に薄皮一枚で乗っかったように生きている。傷つくことが死を意味した。
私は全てに於いて現象が存在し続けてほしい、そう願う。永遠に存在しておいてほしい、と。
つまり幻想に生きている、想像の世界で生きているのは私ではない。彼らだ。彼らこそが目の前の荒野に大きな幻想という風呂敷を広げることを可能として生きているのだ。
僅かな幻想を創り出すことにも実に労力がいるものである。我々が束の間にしろ幻想に浸れるのはそれだけ裏方で演出の準備がなされている。ということだ。
我々は言語における記号のようなものだ。ソシュールシーニュと定義したような存在だ。個々それぞれが記号であって、それぞれの関係性を持ってそれぞれの位置づけ、意味合いが決定する。それは絶えず変化する。関係性を変えてゆくものは消え去るものと新しく生まれ出るもの。そしてシニフィアンによって事後的に変化してゆく。
ありのままの私など存在しない、存在を規定するのはあらゆる状況だ。存在を取り巻く関係性こそがその人間の同一性を形作る。常に人間存在は相対的で不安定なものだ。
私は生命というやつを考えるともう耐えられなくなる。賤しくて、汚しくて、小狡くて、みすぼらしくて、浅ましい、その姿が、この身体から滲み出る汗や脂や古い角質、分泌物、老廃物、排泄物、その様のように否応なく匂ってくる腐敗臭を嗅ぐともう耐えられない。自分という存在に耐えられなくなる。必死にそうではないように努めなければならない日常という諸行を日増しにどう考えていいのかわからなくなるのである。そうやって生きているだけが息苦しく、たまらなくつらい。
まるで周囲は逆賊の私を深い闇に堕ちていく私を救い出そうとしているのか、それとも蹴落とそうとしているのか未だに見れば見るほど判別がつかない。人はよく私の口の中に何かを突っ込まないときがすまないらしい。まるで私がそれを望んでいるかのように、頼まれたかのように話をするために遠路はるばるやってくる。そして私の口の中に土砂を放り込んでいく。埋まらないことに不満を覚えながら延々と話しつづけるのであった。頼んでもいないのに。
私は時に名もなき過去を尊んだ。悲哀に暮れ、絶望的な気分になったりもした。何故ならいずれ何もかも消え去ってしまうから。そのことに対する郷愁に襲われずにはいられなかった。目の前で移ろいゆく全てのものたちが、間違いなく確実にその瞬間とともに消え去ってしまうのであるから。故に全てを記録しておきたいという衝動が湧きあがってくる。ところかまわずどうでもいい人の身の上話を聞いては想像と記憶を繰り返した、過去のいつかに誰かがどのような状況にいた、そのようなどうでもいい瞬間の人間や風景が存在したのだと永遠に保つために強く意識した。子供達はあんなにも無邪気に曇り空の下を駆けて抜けてゆくというのに、私の中は荒涼とした絶望の奇妙な色彩に彩られているのである。いつかの陰鬱、天気のいい昼下がり、喫茶店の窓際でコーヒーをゆっくりとすすっているのに、すべてはガラクタで、つまり都市は機能していないという事実。それはまるで部外者によって占拠された安逸な市街地のようだ、辛うじて生活の形を保っているに過ぎないヴェールを覆った廃墟。そんな気分で世界は色を失ってモノクロの無声映画を延々と流れているように空洞化されてしまう。皆が異邦人なのか、私が異邦人なのか。その両方なのだろう。一体何が常識的で何がそうでないのか。なぜそれはそれでなくてはならないのか。たゆまぬ問いが押しよせてくる。私は時のなかを彷徨っているかつてあった出来事や、未だ体験したことのない未来を頭の中で構築し、まるでそれが過去や未来で起こっているかのように振舞っている。さらにはそもそも体験していない仮想の世界にまで浸入してしまう。わたしのなかで一つの時間軸の連続性がばらばらになり、それらの不思議な匂いやら記憶やらが星の輝くように取り留めもなく目の前に現れたかと思えば、次の瞬間には消失していたりする。そのたびにそれらは私に懐かしいような、抵抗のできない無力感と幻の眩惑を微睡みのなかで覚えさせるのである。気分がそこら中の床の上に転がっているようになるのだった。

幸福はその仕方を教えられてこそ幸福なのだ。あらゆるツールを駆使してメディア媒体から発信される情報が欲し方を教えてくれる。今、何を欲しがるべきなのか、トレンドを教えてくれる。それで幸福の効果を実感できるのであればこれ以上なく素晴らしいことにちがいない。 私はただ人生という名の食卓の前に座ってただ運命というコース料理が運ばれてくるのを待っているだけだ。運命を食らう術がわからない。だからすべては環境に責任をなすりつけ、私は環境を変えることによって変化させる仕方を選んだ。周囲を変えることによって自らが変わるのではないのかという短絡で安易な考えを抱いていた。人々は口を揃えて非難する。真の変化は訪れない。全ての選択に主体として決断する責任を負うことが人間の行為なのだと。しかし、本当にそれは非難に値することなのか。
変化が顕在化する現象は、現実に起こったから神話となるのではなく、神話を創り出したことでそれは現実化するのだ。現実を食す仕方なのかもしれない。私にはその仕方が抜け落ちている。幻想の力とはそういうものである。信じている間は効力を発揮し続けるのだ。人がするある種の気違いのような確信こそが、無根拠な信念こそが、思考こそが、すでに現実化を保証するものとなっている。但し不変的な論理性を前提として。
例えば一人の人間の私生活を眺めれば、我々は部屋に入って愕然とさせられる。何故ならそれは我々常日頃抱くイメージとは異なり生活感でいっぱいだからだ。物語のようにはいかない現実そのものだからである。実際、我々は化粧された姿しか見たくないしそれ以外の雑多な冗長にはひどく失望させられる。
青い鳥のように、結果は既に現前している、しかし、それに気付かずに多くの意味合いを通り抜けることで、ようやく重要なそれとなる。
多くの意味付けを創るためには多くの決断、結果が連続して必要となる。結果は既に現前している。「にもかかわらず」だ。それを本質的に生起させる為に努力せよ。これが我慢ならない。もうすぐにでも現実化していないと我慢ならない。
自分がこの世界の住人ではない気がする。他者と同じ景色を見ることが出来ない。常に自分は錯誤的な在り方でしか存在出来ないし、出来事に追い越される。意味ばかりに気を取られているからか、色褪せた一世代も前の意味を大切に抱えている時代錯誤な人間なのだ。
我々は出来事に関して原因を追い求め過ぎる傾向がある。実際には原因など存在しないにもかかわらずだ。その意味で行動やそれの結果は常に瑞々しく出来事に新たな意味合いを発見している。何故なら我々は可能性に生きているから。

そう我々は侵食されている主人の立場から、我々を我々たらしめているのが行為であるとするのなら行為を行うに難しい時代となってしまった。主導権はもはや我々にはない我々の生み出したものによって確信という牙城を崩されていくだろう。我々が歴史上ここまで今以上に確信を抱けなかったときはなかったのではないのか。そしてそれは益々加速する。多くの人間が確信を抱いて決断出来ないようになるであろう。誰もが疑心暗鬼になり、そうした時もはや精神の拠り所は剥き出しのようになる。今まで拠り所として頼っていたものがそうでなかったことを次々に暴露され仮面を剥がされていくからだ、物語も我々にとってガラクタ以下の代物になり、奪われた部分だけがぽっかりと絶望的に残っている荒廃した状態になる。物語に託せるだけの時代はよかったのだろうか。

あまりに日常的なこととは外傷的過ぎる。非常に意志を必要とする。自分はそれらに吐き気や耐え難い苦痛と退屈を痛々しいほど感じる。ただ横たわっているだけが、そうして頭の中で夢想しているだけが、私にとっての空っぽな現実。食べれない。
何故かわからないが多くの債務を抱えているような気分になる。そして日々それを踏み倒し続けているような感覚。出来事が起こっても起こってないという振りをし続ける。それが債務を発生させている。債務が発生し続けているのにあたかもそれがないかの如くふるまい続ける。なにも外傷的な事件も起こっていないのだと、何もない風を装う。それは悪いことだけに限らず良いことさえも起こっていないのだとしてしまい。むしろそうせざるを得ない。現実を破ってはならないという不文律に拘束されている。
何もかもがだらしなくなって、汚され、蔑まれ、文句も碌に言えず、人としての足元を見られ、ぶん殴られてもただ黙って部屋の隅でもぞもぞとうごめいて、また暫くすると静かになる。卑屈な心持ちも既に通り越し、もう忘れてしまった全てが生煮えで焦点の合わない虚ろな瞳に何が映っているのだろう。カスみたいに扱われ。でっぷりとした肉塊とそこに生えた毛、もはや新鮮とは呼べない細胞分裂の必要性に疑問を持ちながらバラバラとこぼれおちた皮膚の角質をダニが食べているような汚らわしい存在。臭い汚い愚かな破滅的な享楽した吐瀉物。人間がそれだ、自分自身こそがそれだ。「見ろ、なんだこの存在はとても見れたものではない」。
不思議そうに覗き込んでくる他人の瞳、ただそこに映っているのは不思議そうに他人を覗き込む自分の姿だったのだろうか
私とは常に偽物の存在で腐っている。それを他者はほとんど知っているはずだ。察しているはずなのだ。組織の中に私がいると組織は腐っていくのを実感する。徐々に徐々に彼らの心の何処か弱いところから侵食してしまい、しまいには腐らせてしまう。だが誰が元なのかわからない。組織に私が存在してしまうと誰が根源が故に腐食しているのかわからなくなる。私なのだ。私こそが腐らせるカビの胞子を撒き散らしている元凶であり、見えない堕落に導くものなのだ。中身は疾うに腐っている膿で一杯だ。外の皮だけが不気味な色合いでそれらしい体にできている。私という懐疑。
我々は持続するということがない。全ての行為は一過性のもので、他を模倣したものにすぎない。故に端から見ればそれらしいもののようで決してそれ自体ではないことを他者は本能的に、直感的に察するはずである。
本当の在り方で存在したい。だができない。
私はもう本当に発狂しそうになる。
すべてが眼に映る全ての像が虚像だから、全てはただ真っさらな薄っぺらい白いスクリーンの上を跳ね回っている光の残像に過ぎないのだと。全ては幻だ。嘘だ。私が辛うじて信じている形象の諸々の全てが蜃気楼として浮かび上がってくる幻であって、私はいったい何と分かりあおうとしているのだろうか。
そんなもの何もないのではないのか。全部が嘘なのではないのか。
私の心の空虚な闇の底が人を不幸に引きずり込んでしまう、私もどうにもできない、私にできることは現実を破ることではない。距離をとり続けて禁欲し続けることだ。
世界は変換された電気信号の集積のようなものだ。ただ私の見ている世界とは多くの人が経験しているのとは異なった周波数で、ノイズのひどく混ざりあったもののように思う、他者との波長の違う領域に存在する。
私には普通ということがよく理解できない。私は何か魂の抜け殻のような人形で、やることなすこと、詰まるところ不毛なのだ。何かを殴った時にある拳に伝わる感触というものがわからないし、どう足掻いても実感を得ることができない。空の存在なのだ。空がどうして実感を得ようか、我が空虚の始まりは、その所以はどこにあるのか毎日のように探しまわって皆に尋ね歩いている。私の何故を知りませんかと。誰も答えをもった人はいないのに。誰も我が空虚を埋め立てることができない。何故なのだろうか。是が非でも教えて欲しいのだ。
原因なんて欲しがるものじゃないのかもしれない。でも物事が私の中で生起しない限りは、私は問わねばならないのだ。何故不毛なのかを。
目的を失った。何もする気にならなくなってしまった。何故生きているのか。何故生きなければならないのか。理由がわからない。きっと理由などないのだろう。ないのであるから理由を追い越してしまわないように理由となるものを常に創り出しておくことが必要だ。無駄で判然としないものを目の前に映し出しておくこと、随時物事を目の前に据えて、それに対して根本的な疑問を決して抱かぬこと、これが重要だ。
愛玩動物に対する眼差し、愛玩動物は主人が愛でるべき対象のように表現されるべきであり、決して他の個体との外傷的な接触はあってはならないのであって、主人の欲する存在でなければならない。主人の所有物であり続けなければならない。主人の人形のように。
愛玩物のように育てられた。互いに欲するもの禁欲すべきものを命じられそのように振る舞うように命じられ、他者にもそのように働きかけ禁則する。
我々は永遠に小児であり、乞食である。最も財産のない乞食である。この世に生きることを否定し続け、いつ来るかもわからぬ干からびた存在しない未来とかつて存在したのであろう不毛な過去に生き続ける。酒、恋愛、博打は人間を堕落させるものであり、人にとって最も忌み蔑まねばならない享楽体験である。一滴の酒、一瞬の恋慕、刹那の投機は人間の血を黒く染めるものであるがため存在そのものを知ってすらならないのである。
私は所有物である。何者のか。父か、母か、家族か。違う。突き詰めるところ、社会のである。この人間という永続的に存続する実体のないコミュニティにとっての一期間における所有物なのである。私はたんに社会という公器を実体化させる機械のようなものにすぎぬ。ソシュールが言語の実体関係を明らかにしたように、言語の在り方がそのようであるように、我々はラングを実体化させるあらかじめランガージュを搭載されたパロールにすぎないのだ。システム、即ち論理性の実体化装置、のようなものである。関係性における媒体のような役割。
暫定的に存在する契約的なものが我々の根底に眠り続けている。目下出来事の要因は身近なところに求められているが、実際には全ての延長線上にはそれが存在する。
生温い退屈で乾ききった日常は突如として火を吹きだす。その何か内面にある反抗的なものによって、違う、そうではない、私は公器の具体化装置ではない、私は小児ではない、所有物ではない、一個体である尊厳を取り戻す企てとして前兆なく突如に炎を上げ燃え始めるのである。燃え上がる尊厳こそが財産なのであると。
そういった極端な禁欲主義、今を貶めて、過去はまさしくなんの価値もない滓として努力邁進せよ。
ところがどうだ、蓋を開ければ支配者どころか奴隷だ。人生の支配者どころか全くの権限を剥奪されてしまっている。実感すらなく、非主体性の塊だ。一人の人間がその人生においてコントロール幻想を持って生きているのだとすれば、私は全くそれを抱けない。効力をもつことがない。何故なのか。支配者であるほどに誰よりも無力な奴隷なのだという一見矛盾した構図。何故なら目の前の全ての認知を確定することができない状態にはまるからだ。全ては相対であり、何ひとつ認識を決定できないからだ。何かをひとつでも決断することはひとつの主体でなければひとりの奴隷でなければありえないからだ。
計画をしている間が可能性に依って全能を味わう幸福な瞬間だという人間がいる。とすれば私はまさにその極である。
真の行為とは結果が原因を追い越している行為のことである。それは事後的による新たな意味、原因の誕生である。創造するのは非再現性による想定されないものたちによってである。創造された幻想がリアリティ、現実性であり、リアル、現実なのではない。リアル、現実は世界そのものに近い。瞬きをした次の瞬間に目の前にあったものが一瞬で崩れ去る保証なきものである。我々は常にリアリティ、現実性に生きてそれを志向している。それは脆弱なリアル、現実を意味づけすることで、多くの意味つまり幻想性を生み出すことによって支えるという企てである。何しろそれこそがアイデンティティを保証するものであるから。
私の中の思考の垢、長い無意識のうちにこびり付いた汚れを落とすのは全く骨の折れる作業である。ずっと同じように信じてきたことが、全然違うものになる瞬間。
関係性が表された世界、その中に生きていくことは即ち自ら進んで幻想を捨て真理そのものに生きることを拒絶することである。
真理そのものと、真理を表すものとをはっきりと峻別しなければならない。
グラスの中に入った液体をかき混ぜる。見るかぎり液体は初めに形はない。しかし混ぜ続けること数万年数えることそれを忘れるほどに時が経ったとき、僅かに偏りを見せ始めるのであった。空気中に漂う煙草の煙が捻れてゆっくりとその形象を露わにし様相を形成する。
時に思索はデッサンを思わせた。デッサンは微かな全体の粗描から徐々に繰り返し線描することで対象の輪郭を捉える。同様に僅かな日常的な微かな思索の線の積み重ねが時と共に失われてはまた時を超え論理の輪郭を与えてくれるようになるのであった。確かにそれは実に気の遠くなる作業に違いなかった。しかしその線描を捨て去ることがどうしてもできなかった。
運命の支配者となるべく「否、この人生は私のものだ」と人間は言ってしまう。責任を負うということと自己の所有権を絶対者に託すことは同意義である。自己を託すことのできない人間には現実を運命を受け入れるだけの器がない。全ての責任は自分以外の何かにあるのであろうし、自分を変えるのは自分ではなく自分の外にある環境によってでなくてはならないと考える。「私こそが絶対者である」支配者であると宣言してしまう。
果てしない空白感。
私の声はいつも人に届かなかった。人の言葉は私を制約し続けるのに、私の言葉はいつも人の耳にはまるで聞こえていないかのごとく虚しく中空を彷徨い、雑音に掻き消される。この虚しさ。人である尊厳を認められていないような空虚。存在しないかのように存在する堪え難さ。届いて欲しいと願う存在そのものの声のように思う。誰も気づきやしない。誰しもがそこに何もなかったかのように足早に立ち去ってゆく。彼らの瞳に私はいなかった。
目の前の空白、自己の生み出す空白に堪えられずに付け焼き刃で表面的に覆う努力をしようとしてきたわけだけれども、それがまた他者を困惑させる機会となったことも事実だ。ただ私は空白を埋めるために演技をしていたのだから。透明な妖しい焔に力無き蛾が一瞬でも群がることも頷けるわけである。私がする行為に似た取り繕いが時に人にとっての不毛な時間と労力を与えてしまうのだ。
常に新たなものとは僅かなズレ、間違い、から生まれる。そのように社会も歴史的に変化してゆく。私というものが完全な社会の投影人格とは呼べないのはそういった意味である。僅かな非再現性が新たなる変化をうみ、私を単なる全てにおいて社会の投影人格としてではない存在であることを規定づける。
私が決して貴方ではなく、また貴方が決して私ではないということが甚だ不思議に思えてならない。何故遺伝子を分かつ同類種でありながら、全くの別のアイデンティティをもつ人間だなどということになるのか本当に信じられない。私を形作り制約するものは本当に私の物理的個体だけであると何故言い切れるのか。また何故そうでなければならないのか。
いつか使うからという理由でモノを溜め込むように、日常生活で行っている思考もまた、いつか使うと信じて二度と使うことのないような無駄なモノを大事に保持しているのではないか。使う、使う、いつか使うと。二度と使わないのに、雑然とした思考スペースで無駄な処理を行うその間にも時間は否応なく過ぎていっている。どの道使うことのないもの、使うとしても一度のものに何故アプリケーションを立ち上げたままにしておく必要があろうか。それをアイデンティティとして支えるだけの部品だといっていいものか。ゴミのような処理が我がアイデンティティの徴なのだと、こんなにふざけた話はない。捨ててしまえば案外呆気ないもので消え去るものを思い出すことも何もないのではないのか。
全ては問うことから始まっている、認識すること、そして問いはそもそもの欠如から結論、結果を導き出すため、空白から一定の事実を遡及的に生み出す効力がある。
そしてならば問わねばならない、何が問うことを可能としているのかと。
まるで我々が我々の見る内在的な世界の空白を埋めていくためにそうするように問うわけである。
無いものを存在させるかのように問う。
無いものを現前させることは根本的には可能性の領域の活動に依拠する。
空白があると同時に結果は既に存在する。埋め合わせるのは後からくる理由である。さもその原因かのような顔をしてやってくる。
実際には現行で存在しないものを原因として引き出す。
産まれ落ちる以前より孤独であった。私はひとりで闘い続ける。闘う?むしろ逃げる。否、そうではない、彷徨うのだ。他の誰とも分かり合うことなく。誰もが分かり合えない。分かり合えるかのように振るまわずにはいられないでいるが、私にはそんなことは関係のない。私はただ苦悩し続けても内的にはひとりで歩んでゆくほかないのだ。それは私が神の逆賊であるさだめだからかもしれない。人々は信じる、そして自らが信じていることさえ知らないがゆえ、信じているふりをするゆえに寵愛を受ける。それに比べて私が所有しているものはなにもない。何も持ち合わせていない。ただ私が組織の中にいるとそれが腐っていくのを感じる。何故なら他ならぬ私こそが腐敗した存在だからだ。しかし声高に叫んでも誰も気づきはしない。居場所がないんだ。私の持ち物は何もないんだ。何処に行っても私がいないんだ。私は私を探し続けているのに、人に尋ねてもわからない。私は何処にいますかと尋ねて回る、まるでそれは空の存在が彷徨っているだけなんだ。確かなものは私の手のひらから砂のように溢れ堕ちる。胡散臭いものだけが残りやがる。すぐさまハエがたかる腐った生ごみのようなものばかりに囲まれる。自らの腐敗をどうにもできないのだ。ありとあらゆる腐りきった理由に囲まれて妙に青く透きとおった空。堕落、妥協の快癒に微睡み死んでいる。
私は時々、堕ちた人たちのことをよく考える。彼らのどうにもしがたい傷に共感を覚えてしまう。ひょっとするとそんな同情はよくないのかもしれない。しかし、どうしても、私の中には彼らの存在を亡き者として通り過ぎるわけにはいかない何かがある。人は云う。それはその人たちの責任であって、判断により然るべく堕ちたのだと。しかし人というのは相対的な存在でしかないのだ。今日善人だから明日善人とはかぎらない。今日金があるから明日はあるとはかぎらない。絶対的な存在など何処にもいない。それとも地獄に堕ちつつある人間の虚言なのだろうか。即ち私のような。
我々はあまりに原因を探しすぎる。そして全ての要素が原因を基盤に構成され続ける。全てが既存であり続けるために。我々は既存でない偶発的なもの、事故的なもの、出来事のずれ、失敗を疎かにし過ぎる。それらを常にガラクタか疫病かのように考え、ネガティヴな側面でのみ捉えてしまう。それにまつわる新たな要素としての創造的側面を見落としている。それが二度と起こらないように生じないようにすることが健全でより良い世界なのだと信じて改善することに努める。実際には社会の物事を進めるものは常に偶発的なズレなのにである。社会はいずれ既存のものは革新的なものによって変化していくにもかかわらず。我々は既存の再現に現れる非再現性要素をクリエイティブなものとしてではなく否定的な失敗として捉え、受け入れることを拒み続けて既存に止まりつづけている。
多くの既存の行為は理由を先行させ実行される。しかし、真に物事を進めているのは実のところ理由を追い越している実行のみである。
それら社会の全ての根源の核には「意志」の在り方が存在していることを理解しなくてはならない。
主義とは何か主義とは既存の、意味にさえも支えられていないが枠組そのものを支持するものである。つまり残念なことに、主義が援用されるのは、それは手取り早い既存のものという理由に過ぎない。脆弱なものなのであるが、大衆はそれに気づかない。それは意味の振りをした全く意味によって構築される過程を一切無視して主張することのできる容易な武器である。したがって安易に迎合しやすい側面を持っている。
人は彼が演技をしていると思っているのであろうが、実は人は彼が演技しかできない人間だということと、彼の演技それこそが真の姿なのだということに気づかない。すでに現前しているヴェールが中身それ自体であることに錯覚してしまう。中身は空っぽなのだ。だから彼も自らの中身を出すことの以前にそれが表面的であることに悩むのである。そしてその空虚がまるでブラックホールのように周囲の人間たちの欲望を吸い寄せてしまうのだ。人々の内面の欲望を彼という形態に誤って持ち込んでしまうのだ。それがブラックホールであるとは気付かずに。弱い依存的な人ほど堕ちてゆく、破滅する。薬物依存のようなものだ。
人間にとっての最上の幸福とは人生における困難を乗り越えることではないし、牧歌的で平凡な日常でもない。ましてや栄誉を勝ち取ることでもないし金持ちになることでもない。刺激的な瞬間に生きることでもない。
では何か。
それは責任を負わないということである。運命の全てに対して責任を全て放棄してしまうことこそ人間が何よりも望むことである。それは私とは全く関係のないことであると。断定することを放棄すること。突き詰めると、私は私の人生に何らの根拠も持たないということ。我々は何者かが我々の代わりに生きてくれればいいのにと感じている。そして我々はいつしかそれを無意識のうちにそれを実現してしまうのだと確信する。我々は望み通り消え去り永遠の匿名者となり、代わりに何者かが代理として存在するようになる。
人生とは匿名の墓碑を打ち立てることである。永遠的なものを求めるものであるが一切の責任を免れることを望むものである 。我々の存在が証明されれば生きなくても良いということかもしれない。そうとも、呪術的効力に満たされていない今であるからこそ断言できるのだ。生ぬるい幻視に誘われては盲目となる。それを拒み続け、進んで地を這い泥沼に堕ちていく。それでも決して諦めることなくもがき続ける。私は針の筵だ。耐え難い存在だ。

原因を探してばかりいるのであれば、認識がそうであるように行わなければならない。つまり断定を与えてやる、結果を与えてやることを原因に先行させる。目の前にある空白がそれであると、断定してやらねばならない。その実態がどうであるかは後に意味づけする。しなければならない。何かでなければならない。たとえそれが幻だとしても。
運命は人智を超えた太陽であり続ける。常に超えることのできない人を翻弄する気紛れ。どんなにその不条理を嘆いても我が支配下にはおけない。じりじり焼け付く日照りに晒されその強烈な暴力性の前に無力である。頭を掴まれ、殴られ、貶められ、泥水をすすらされる。まるで我が存在は無力な人形だ。
つまり彼らの情熱には何らの根拠もないということだ。それが一番重要なことなのだ。意味などない、根拠なき自信こそがもっとも変化の源泉と呼ぶに相応しいものに違いない。全ての理由は後にして誰かに語らせておけばいいらしいのだ。
私には普通ということがよく理解できない。私は何か魂の抜け殻のような人形で、やることなすこと、詰まるところ不毛なのだ。何かを触れた時にある手のひらに伝わる感触というものがわからないし、どう足掻いても実感を得ることができない。空の存在なのだ。空がどうして実感を得ようか、我が空虚の始まりは、その所以はどこにあるのか毎日のように探しまわって皆に尋ね歩いている。私の何故を知りませんかと。誰も答えをもった人はいないのに。誰も我が空虚を埋め立てることができない。何故なのだろうか。是が非でも教えて欲しいのだ。
原因なんて欲しがるものじゃないのかもしれない。でも物事が私の中で生起しない限りは、私は問わねばならないのだ。何故不毛なのかを。
目的を失った。何もする気にならなくなってしまった。何故生きているのか。何故生きなければならないのか。理由がわからない。きっと理由などないのだろう。ないのであるから理由を追い越してしまわないように理由となるものを常に創り出しておくことが必要だ。無駄で判然としないものを目の前に映し出しておくこと、随時物事を目の前に据えて、それに対して根本的な疑問を決して抱かぬこと、これが重要だ。
愛玩動物に対する眼差し、愛玩動物は主人が愛でるべき対象のように表現されるべきであり、決して他の個体との外傷的な接触はあってはならないのであって、主人の欲する存在でなければならない。主人の所有物であり続けなければならない。主人の人形のように。
愛玩物のように育てられた。互いに欲するもの禁欲すべきものを命じられそのように振る舞うように命じられ、他にもそのように禁則を要求する。
我々は永遠に小児であり、乞食である。最も財産のない乞食である。この世に生きることを否定し続け、いつ来るかもわからぬ干からびた存在しない未来とかつて存在したのであろう不毛な過去に生き続ける。酒、恋愛、博打は人間を堕落させるものであり、人にとって最も忌み蔑まねばならない享楽体験である。一滴の酒、一瞬の恋慕、刹那の投機は人間の血を黒く染めるものであるがため存在そのものを知ってすらならないのである。
私は所有物である。何者のか。父か、母か、家族か。違う。突き詰めるところ社会のである。この人間という永続的に存続する実体のないコミュニティにとっての一期間における所有物なのである。私はたんに社会という公器を実体化させる機械のようなものにすぎぬ。ソシュールが言語の実体関係を明らかにしたように、言語の在り方がそのようであるように、我々はラングを実体化させるあらかじめランガージュを搭載されたパロール(実践機)にすぎないのだ。
暫定的に存在する契約的なものが我々の根底に眠り続けている。目下出来事の要因は身近なところに求められているが、実際には全ての延長線上にはそれが存在する。
生温い退屈で乾ききった日常は突如として火を吹きだす。その何か内面にある反抗的なものによって、違う、そうではない、私は公器の具体化装置ではない、私は小児ではない、所有物ではない、一個体である尊厳を取り戻す企てとして前兆なく突如に炎を上げ燃え始めるのである。燃え上がる尊厳こそが財産なのであると。
皆旨く幻想をすぐさま取り込む術を知っている。私はそうではない。一度既存の幻想を失ってしまうと新しく幻想を持ってくるのにあまりに時間がかかり、結果その間は完全な空白となる。
蝿が私の周りを飛び回ることをやめない。この世には邪魔なものしかない。私を操る意図しかない。あの異常な呪術に対する情熱や操ることへの固執。私の微力な意志の声が騒音に掻き消される。何故こんなに過敏になって、神経質になってしまったのか。大きな耳鳴りを恨むしかなかった。目に留まるあらゆる数字の羅列は何らかのことを暗示しているようにおもえた。また寓意のようにとれることは生活のあらゆる局面で生じる。単なる現象とそうでないものを、つまり自然と非自然を切り離すことがどうしてもできないのだった。故に考えていない時ほど平穏である。意味に包まれていない瞬間がぬるま湯に浸かるかのように安楽である。
私はいつも一人。そんなことないだなんて、本当に言わないでくれ。私の喉の奥で焦げた匂いがする。焔の残り香なのか、寂寥の気焔なのか。僅かな私の燃えかす。なんでそんな顔で見つめるのだ。もう嫌なんだ。それは誘惑なのか。賢者はそういうだろうか。それは欲求に過ぎないというだろうか。違うと私は言う。確かに私は炎に群がる蛾なんだ、全くの意志を持たない蝋人形なんだ。そして誰もの中心にあるものもそういうものなんだろうとおもう。誰も気にしやしないけれど。何故決断しなければならないのか、何故意志しなければならないのかわからずにずっと生きているんだ。僅かな存在で生きている。私の声は届かない。聞こえないのだろうか。聞こえやしないのか。聞いてはくれないのか。無力にも届かないのだ。君が炎で私が蛾。君の中に燃えながら入ろうと懸命に、自分を滅ぼすものと知っているのに突き進んでいかないではいられない。君はいつだって私を傷つけるものであるのに何故求めずにはいられない。傷つきたいのか。滅びたいのか。
つまらないくせに、何故楽しそうに振る舞うんだ。辛いんだろうに。何故振りをし続けるんだ。くだらないくせに。何故声がでないんだ。
居場所がない。誰の目にもこの人間は晒されてはならない。外にある何もかもが私を疎外するために私に接近するようになり、私の生活の中に流入しようと試みる。席は奪われ路頭に迷う。放浪する。それは始めからわかっていることなのに
今雨が降ってこないのであれば、陽が射さないのであれば、それは仕方がない。
今、できることを淡々とこなしてゆくしかない。
ちゃんとした服を着ていても、乞食にすら怒鳴られる。万物すべてのものから蔑まれてしまうのだ。意志の脆弱さをまるですべてのものから見透かされているかのようだ。
ただ彼らがそのような人間であることが私を何か安心させるのだ。彼らはとるに足らぬ存在だ、まだ私の方が優越であるなどと自尊感情が湧き上がってくるのだった。みすぼらしい。
虚無は必ず私のもとに舞い戻ってくる。
前を歩く彼らとは明らかな断裂があった。同じような空間に存在するはずが、実際にはその本質は全く別の領域に住んでいることを誰もが知っていたのだろうか。それを口にするものは誰もいなかったし、さほど明確に認識するほどの重要性が彼らのなかにはなかったのだと思う。歩幅が違う。脚の運びの交錯する違いが残像として眼のなかに舞う。嘘だ。彼らという、いとも簡単に日常的幻想を自らに組み込むことを容易とする人たちが跳ね回るのを私はただ、ぼんやりと眺めているだけだった。いや、というより私が跳ね回っているのを私が眺めているのか。先天性の素質は如何ともし難いものだった。
まさか世界が廃墟に覆われたヴェールそのものであるなどと誰が想像するものか。
全ては外傷的だ。たとえどんな癒しも、快楽も、全ての物事は余さず外傷的だ。あまりに弱く傷つきやすいと外傷性の先に死が垣間見える。死の影が薄っすら覗いているのを感じる。もうそうなるとじっとしていられずに快楽に溺れたくなる。まるで死が生への執着によって剥き出しにされたかのように。破滅的な鈍い吐き気を伴いながら借金取りに追われながら博打に興じているような。自らの生そのものを安い可能性に賭けてあわよくば助かりたい。自らは一歩も動かずに世界が変わってくれればいいと、そう思わずにはいられない。
抑圧され監視し続けられた昼間は無制限で惰性的な夜を生んだ。只々時間が、可能性が、延々と間延びしてしまい手に負えなくなった。われわれ種に特徴的な傾向である。我々は現実を受け入れるために存在するのではない。我々自身が現実となるために意志し、存在する。我々は現実との間に断裂を経験し続ける。何故自分の能力に失望するのにこんな時間を費やす必要があったのか解らない。全ての物象は私の中に自然と浸入し、占拠して憚らない。私を蹂躙し続ける。私のことが嫌いであるということ。そしてそもそも私も生きとし生ける森羅万象に対して相容れぬ存在であるという意識、拒絶感を持ち続けていたこと。まるで相手を蹂躙することが相手の尊厳を守るというような矛盾した律、法にでくわす。「貴方を愛するがゆえに貴方を滅ぼす権利がある、或いは喰らうのだ」と言ってどかどかと上がってくる。そして、それを実行する彼ら自身もそのような原理をはっきりと意識上で認識していないこと。実際そのようなことが日常的に生じているのだと思う。何か互いに寄生しあうような、境界がはっきり定まらないような日々刻々と変化し続ける様。
文明ということは何が文明かと問えば、それは可能性の領域で現実世界に対するすぐれた分節性を実現したという点である、と答えるだろう。俗に未開社会を文明社会の問題点を解決してくれるモデルかのように比較対照としてその優劣が語られるが。文明社会は本当に未開社会に優っているといえるのかという疑問である。しかし、その疑問もまさにただ一点、文節性という点において全く優れているのである。故に支持されるのである。未開の民族が分節性を有していないということではない。分節化は誰もが行う。問題はいかに分節化するか、どの様に関係性を機能させるかということである。幻想があるならばそれがより良く機能するように。
人の不誠実の極みを行った人間の末路。彼は全ての人間に限らず、全ての霊性的なものや物事そのものの認識することすら嫌悪を抱くようになっていた。そうして、彼にたいしても周囲は反転して同様の感情を彼に抱くのであった。忌々しく思っているのは私か、それとも相手か。両方か。
背後の暗がりに声が吸い込まれる。声の礫はぶつかることなくすれ違って消え去るだけだった。しかし、皆が確実に濁った血に飲み込みれて知らず知らずに溺れてゆくその様をただ手を拱いて呆然と眺めている。自らの効力について考えざるを得ないのだった。道路を自暴自棄のように走る気違いトラック。私の中には極度の畏れしかない。差し迫ってくる何ものかを感じないではいられない。小刻みに揺れるテーブルの上のコップをみながら。
嘘と見栄と惨めさと
実に白々しくまるで保証されているかのように次々と幻想を演出し、そんなもの誰の中にも残ってはいやしないのに、一瞬で消え去るのに、あたかも永遠に忘れはしないと口にした次の瞬間には平然と何もなかったかのように日常を送っていく。
自らが幻想という服装に着こなされるように機能する努力をする。身体はとっくに死んでいるのに幻想は存在する。幻想を改訂更新し存続させることが我々の存在理由だというのか。
可能性という記号を機能的に分節化させる。それも記号という概念のレベルですら幾度も書き換える。よりリアルの再現に近似するように測りなおす。 そしてよりリアリティの高いものへと昇華、収斂していく。雑多で冗長的なものは切り捨てて、より論理的なものへと。
今考えると、電車の窓から眺めた次々と変わりゆく景色の中にあるあの一瞬の、葉一つを強く自己の中に永遠に遺しておきたいという欲求は、あの葉、つまり現実性への渇望の現れであり、自らが存在するということの保証であったのだ。そのひとつの葉の残像が、現前する存在が既に失われているにしろ、私を可能性の世界に繫ぎとめる保証となると。
深夜二時、虫が炊事場の排水口の近くでひっくりかえって死にかけていた。こんな冬の夜寒い中で冷たく水浸しでひっくりかえってるんだ。突如として楽観しているかと思えば、次の瞬間にはもう死にたくて仕方がない。自らの存在の相対性を思い知らされる。
本当に自己が自分である必要なんてないのにと思う。
つい目の前の物事の関係性に呪術的な思考文節をもちこんでしまう。結局は解釈の問題なのだ。ただそれが機能的な文節方法か、効力を発揮する文節なのか、或いは全く根拠のない機能的でない文節、つまり解釈なのかという違いがある。それを常に自分に問い続ける必要がある。
意味を生成するのは行為だという。行為とは無意識に知っていることを意識に知らないということによって可能になるのか。つまり意識的主体からすれば誤謬となるようなパターン。私はいつも行為が行為たりえない。私が置かれているのは常に無意識に意識的な知っていることが侵入し続けていることだ。
無意識に於ける可能性と意識に於ける可能性の違いとはなんなのか。
無意識には時間概念が存在しない。ならばそこで見出される可能性とはどういったものなのか
プログラムされた必然性と呼ぶべきか。既に仕組まれたコード。反対に意識的な可能性は根拠のない自由な世界で非合理的な領域にある。しかし、我々を進歩させるのはまさにその意識的な領域の概念の文節化精度にこそある。何故なら意識的な領域の可能性こそ今まで既存のコードで我慢しなければならなかった我々の無意識的な領域を超え出て更に拡大して捉えることが可能となるからだ。これまでの学問とは世界をどのように捉えるかという文節の絶え間ない改訂作業の現れである。
行為の前に意味で突っ立っているというのはつまりどういう状態か。つまり無意識と意識の関係性では。
結局、解釈することの脆弱さを思い知らされるわけだ。我々の種は無意識上の知らないことを意識上の知っていることのような態度で観察し続け現実にその論理をもって介入しようとしてとんでもない過ちを犯す。つまり無意識に知っていることを意識で知らないことのように存在する人々は我々の種よりもずっと機能的で健全な賢い存在であるといえる。それでしか現実の枠組みを発展構築することが出来ないように思う。行動と思考の関係性になる。
リアリティとはイデアに近いものといっていい。しかしそれは普遍的ではあるが完全な固定された理想とはいえない。我々はリアリティの中に生きている。
もしも、運命がまさかあんなことと同じように展開していくとしたら!私はただ舞台でわけも分からずに糸に支配された人形のように。同じ過ちを何度もいつまでもしつこく繰り返しこけ続ける。耐えられない。とにかく何がなんでも自分の存在する意味を突き止めなければ気が済まない。しかし、何故そこまで固執してしまうのか。理由を問うのかという問い。問い自体の問いが最も前提としてある。
変な話、人としてもう重力に耐えられないと叫んでいるようなものだ。
問いとは「何故」だ。「何故」とは意味だ。それの根拠となる説明だ。ならば原因といえようか。原因を探ろうとする性なのか?実際には結果は原因に先立つというのに。何故原因を欲しがるのか。
原因とは実際には存在しない我々の作り出した表象である。目の前のリアルを失っていることを我々は無意識の内に知っているのではないのか、それが故にそれを永遠に可能性という琥珀の中に止め置こうとより根強い表象又は幻想を目の前に具象化せずにはいられないのではないのか。
まるで悪霊に取り憑かれたように有りとあらゆる場面で人生が暗転していく。もうこれ以上転がり落ちるはずはないと考えていたら更に転がり落ちる、一体何処まで堕ちるんだ。これは単に主観的な問題なのか。私がそのように物事を落ちていると解釈しているのに過ぎないのか。それとも実際的な因子によって然るべく落ちているというのか。どうしても私には計り知れないものだった。運命が私に何を望んでいるのかわからない。どう進むようにしたいのかわからない。運命が私を阻むとき、それは道理的に禁忌であるのではないのか。それともそれは非合理的な考え方なのか。
私は何者なのか、何なのかという問い。しかし、それも状況が作り出した問いではある。つまり限定的な状況下で生じうる問い。必ずしも誰もに必要とされる問いではない。だが、この生がただ単にこの僅か数十年の微かな感覚であるということだけで「そうですか」と終わらせるわけにはいかないのだ。わけも分からずにのたうちまわり、もがきながら壁にかじりつく。そんな生であっても答えを探さねばならないのだと。幻想の組み込みに失敗しているにしても、ある幻想の枠組みを一定程度に持続することが、微々たるものにせよ文節化を可能としていくわけだから持続性による主体の適用能力はあることは確かだといえる。でも苦痛で何より退屈だ。
嗚呼、私は自分の墓を掘っている。何故わざわざ自ずから滅ぶ。だがやめられない。何故ならば、それこそが私にとっての真の意義となり得るからだ。やめるわけにはいかない。
吐き気がする。皆そうだ。皆惨めなのだ。本当か?真に本当なのか?
何も企画できないし、実行もできない、何かに騙されることもない。
ますます宿命の波に飲み込まれてしまって。
他者に対する否定性は自己肯定の鋲打ちに。
わからない。論理性としては無根拠ながら自己という泥沼に肯定という杭を打ち込める。いや、私がもっと解りたいのはその先の抽象、つまり他者ではなく、私ではないもの世界、外界、他性に対する否定性、否定性がどうであれ肯定的であれ要は断定することができるのか否か、「私ではない。」と断定することこそが自己の肯定性に貢献していると考える。世界は私のなかでぼろぼろと剥がれていった。小さな衣をぼろぼろと落としていった。最後には何も残っていない。そうしてなにもかもゴミ以下に成り下がった。何も断定するに値せずと。
論理性は言語以前に存在する。言語は他の器官がそうであるように主体に内在する論理性を表現するための道具に過ぎない。だから論理性はあらゆる分節運動によって不変なものとして微かに認知されていくが、言語はそれを正確に描くか、さもなければ歪めて足を引っ張ってしまうかのどちらかである。諸器官が錯覚を起こすように言語もまた錯覚を引き起こす。リアルがどうであれ現実全ては可能性であって、それでこそ限りなく応用のきく分節化を実現している。また同時に全ては分節化しても論理性を少なからずなぞったものとなり、物語、つまり現実性として現れる。現実は現実性であって、物自体ではない。あらゆることは回想的だと言える、未来にせよ過去にせよどちらにせよ回想的でリアリティのある現実を描いてくれる。常に常時書き換えられ続けられる。
死が俺を射程に入れ始める。もう居ても立っても居られない。泥まみれで瞳が濁り堕ちてもう確かな輪郭も見えず混乱と切迫だけが俺を覆って、繰り返し同じように地べたを転げ回っている。
生はまるで債務のようなものだ。借りた記憶もないのに返済を求められる生。生まれ堕ちて既に関係性に組み込まれている。「お前は各所からの要求に応える義務がある」資産を稼ぐと偽って負債を少しでも返済する。そうして気がつけば他者から自らに掛けられた負債を返済することが当然かのように確かなものを稼ぐわけである。そうしてまた新たな負債を延々と生み出す日常。生きたいから生きているというより死ねないから暫定的に生きているに過ぎないだけの生。債務を増やしてはツケを何かに押し付ける。でもそもそも確かなものを見つけなければならない義務が、実行が、債務の履行が何故初めから為されなければならないのか誰も知らぬ。私が生きていて簡単に死ねないのも様々な委託されてきた責任が、義務が私を拘束したがるからだ。思い出作りも大変だろう。
多くのものが労力は提供しても責任を委託していることを公言しない、むしろ気づいていない。依託している、罪のように、或いは徳のように認知されているものもどちらにせよ、我々は責任を匿名の慣習や法の下へ依託しているのだ。制度にこそ、契約関係そのものにこそ責任を代理させてしまえばいい。それが我々の根底に根付く意志にほかならぬ。そしてそれを私は批判しようとも思わない。ネガティブなものであるとも思わない。むしろ根底にある意志こそが我々を導くであろうから。
いつしか我々パロール、生の実践機はラングというシステムを内包して、内在するランガージュを知り、我々自身の代替者を生み出しラングというシステムに永遠に刻まれることを望むだろう、但し匿名で。
私は私自身が代理品のように思えてならない。そしてそれでこそ私の意義が全うされているようにさえ思う。知らぬ間に我が意志の、或いは根源的な延長線上にある意志の代替者を生み出してしまう。私の思考もまた私を媒体にして匿名の意志が思考しているに過ぎないのではないのか。たんなる不出来なコピー。私の生を代替するものを生み出し、
それがまた誰かを代理のものにして…。

支配者の残像は粗末な絵付け皿を暗い地下牢の床に叩きつけた。破片が飛び散って、割れた甲高い音の余韻だけが地下の冷たい空気に反射した。
「これもゴミだ。」