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自己に責任をもてとはつまるところ自らに対する責任なのだろう、自己とはそれに留まらず操作できる存在であるという錯覚

 

何か「私は私ではない」と吐露しているようにも思える。跳躍した思考がそこにはある、

常に「ここではないどこか」という構造も同様に

自己ができる、行える、実行することが可能であるということが主体に自由な選択は可能であるということを錯覚させる

実際は必然にして行われることを知らずして

まだ主体は抱く、自由に意志することや選択の権益があるのだということを。

 

そもそもの思考形態というものが飛躍でしか有り得ないのかもしれない

それはつまり一つの事象は別次元の別物に同時にできうるのだという思考に基づいている

 

ひとは量子力学的な思考しか行えないといえるのかもしれない