欲望に「溺れる」という…

通常そこに見る意味とは自らの理性と称されるものによって抑制し未だかつて存在を証明できたもののない主体とやらを律することができずに堕落した、即ちそれは社会的共同体の通俗的理念に反していると捉えられる

ただそのように考える以上は次の観念を有さなければならないことになる

つまり前提条件として確たる主体があり更にそれは自ら一切の制限を受けることなく自由な意志を抱き得るのだという観念を用意しているに違いないということである

 

全てのことが可能でなければならなくなる

 

実際「溺れる」とはそのままに溺れたくて溺れるものはどこにもおらずむしろただ必然性における結果のようにしか思えない。

 

突飛な言い方に聞こえるかもしれないが

矛盾していることに寝たきりの肉体の物理的不可抗力に晒されている老人については自由のないことを認め、一方で若者たちは自分が今それと同じ状態にあるとは考えない。むしろ老人とは異なり彼ら自身は大いに自由にあると信じているということだ

 

できないと捉えていることもできると捉えていることもまったく同様の領域にあることを

見落としているのだ

 

つまり社会的な共同体を営む理念として必要な視点と実際的な現象とを混同してはならない