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欲望に「溺れる」という…
通常そこに見る意味とは自らの理性と称されるものによって抑制し未だかつて存在を証明できたもののない主体とやらを律することができずに堕落した、即ちそれは社会的共同体の通俗的理念に反していると捉えられる
ただそのように考える以上は次の観念を有さなければならないことになる
つまり前提条件として確たる主体があり更にそれは自ら一切の制限を受けることなく自由な意志を抱き得るのだという観念を用意しているに違いないということである
全てのことが可能でなければならなくなる
実際「溺れる」とはそのままに溺れたくて溺れるものはどこにもおらずむしろただ必然性における結果のようにしか思えない。
突飛な言い方に聞こえるかもしれないが
矛盾していることに寝たきりの肉体の物理的不可抗力に晒されている老人については自由のないことを認め、一方で若者たちは自分が今それと同じ状態にあるとは考えない。むしろ老人とは異なり彼ら自身は大いに自由にあると信じているということだ
できないと捉えていることもできると捉えていることもまったく同様の領域にあることを
見落としているのだ
つまり社会的な共同体を営む理念として必要な視点と実際的な現象とを混同してはならない
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彼等はスクリーンに住んでいる
彼等自身死ぬが死ぬまで気がつかぬ
老人になることもない、
死ぬこともない、
彼等は眺めているだけだ
でも私はそれですらない
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責任を負うことで自由を得る
それはわかっている
これまですべてそれが豊さであった
生の快活 効力を所有できる
厳密に言うなのならばそう錯覚できる
彼等がそれでいいのであれば
それでいい
ただ我々の見ているのは生の核についてだ
効力を失う、或いはこれからは効力を
半ば半永久的に所有することを実現化してゆくことが、どちらにせよ
根底にある核は変わらない
あれば私は所有しているという幻想を抱けるし、失えばかつて私は所有していたと思うのだろうし、それはかまわない
それはいいいっこうに構わない寧ろ科学的進歩で生の効力拡張は待ちに待っていたことだ
つまり自助努力で限られた一主体が効力を所有することに関して、
もはやそれはこれまでの何千万年から21世紀初頭までの話でこれからの事実をかたれないしまったく役に立たない概念だ
自助努力を促す時代は終わった
課題は
一つに自助努力を促す古い概念を捨て去ること
一つに生の核に関することだけが看過されること
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できることは何もない
そもそもの意義が自助努力の域を
越えてしまっていること
それに気づいてしまうと手の施し用がない
まさか自分があの苦悩の泥沼に
落ちてしまうとは終ぞ思いもしなかった
信じはしなかった
決断できない残りの余命をいかに平坦に刺激なく、尚且つ退屈の苦しみなく時を忘れるかのように過ごすかが私の目標
といっていい
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自尊が
わたしがわたしの認識を
もたなかったなら…
どんなに幸運なことか
誰か代わりにやってくれたなら…