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あらゆる瞬間、関係する瞬間、

どのような仕草や些細なコミュニケーション、挨拶や会話中の相槌のイントネーション、ジェスチャー、会議で意見を発言することも或いは聴くことも全て含めて

総て

翻意は一つの意味に集約できる。

つまり「私はある!」という終わりのない確認作業である、存在存立の証明の企てでしかない、、、。

デカルトは「我おもう故に我あり」といったがむしろ存在の存立を巡る構図はデカルトのコギトが他者の存在との関係性のうちに自己を位置づけていないのに対して存在は他者を前提とする意味で事実上、

私はあるということを証明するためにあらゆる認識や発信(内的なものを含めて)によってより確固たる存在を証明しようと足掻く行為の空転のようなものだ。

私は私という存在が存立していることを日々証明し続けなければならない。

覚書

 


「着衣を剥がされた精神のみじめさを人々はまだよく理解していない。」
     ジョルジュ・バタイユ『内的体験』


生、それはまさに呪縛との闘争だ。
泥舟に乗って運命と名乗るやつと一家心中というわけだ。降りることは許されない。
生きるほどに傷つき易くなり、吐き気がしてくる。

「従うか」と訊ねられ、首を横に振ってしまう。なんと惨めで愚かな。しかし、彼らは決して執行などしはしない。むしろ私を代理人として、生贄として捕らえておこうとするであろう。それは実に効果的なのだから。
頷くことができるたなら私は救われたのだろうか。私は進んで孤独を歩む疎外者となってしまうのだった。初めは疎外を知らず、智がつき事後的に疎外を認知し、そして自他共に認めるところの疎外者となった。
この苦闘の日々が一体何になるのかさっぱりわからない。私の中には虚しさしかない。どう足掻いても行為はそれ自身になりきれなかったのだ。数十年間、虚しさの中に生きるということ。私は私自身を救うことが最早困難となった。
どんな快楽の後にも必ず訪れる空白感という不可解な現象。幾度もその行程を繰り返す徒労。
私が私でなくなるように続く逃避行。太陽とは分かり合えることもないままに。また、それからは決して逃れられぬ運命にあることがなにより悲惨だった。永遠の日差しに灼かれ続け砂漠のど真ん中で剥き出しの精神が立ち尽くす。どんなに手の込んだ方策を練ってしても簡単にひっくり返される深淵。平然と生きてみせる人々の疑問をもたぬ精神が憎い。私は砂漠を歩く歯抜けのロバ同然だ。


存在にとって統合は人々の精神に映るイメージであって存在存立の不可能性に言及するものである。本来的な存在のあり方としては完全な統合はあり得ず、分裂的でしかあり得ない。私は分裂的で神経質の素因が過ぎるが故に剥き出しの精神が生との接触に耐えられない。解体中の建物のようなものだ。
永く生きていると、つくづく存在は他の存在との境界において否定的、あるいは敵対的な関係以外に生じること自体が不可能ではないかという観を強くする。一見与えているような行為もまた自らの存在を確立するためのより多く返る見返りを前提としている。マルセル・モースの交換に関する考察。このような考えが他者から見れば厭世的であると捉えられてしまうが私はそれについて感情的にはじめから結論を用意していたわけでもなく、僅かな事象の関係性をつぶさに観察してみればそのような現象として捉えざるを得ないと結論に至るだけなのである。実際、目を背けたい現実とはまさにこのことである。誰もが背を向けてしまいたい事実なのだ。


皆誰もが「全能感」というものを羨むがそれは全くの見当違いなのだ。
老いと、惨めさとが真の精神の構造において他ならない。私は腸を食い尽くされた虫の亡骸のように干からびた精神を誇りにも、快く思えたことなど一度たりともない。生きれば生きるほど、弱くなる。慣れとは逆に敏感に傷つきやすくなる。これこそ老いた姿なのだ。時間が経てば経つほど幻想の衣を剥ぎ取られ眩暈のなかで混乱の内に生きている。

私は混乱の只中にいる。上も下もわからない虚無の宇宙に放り込まれ、何が好ましいことで何が好ましくないことなのか、さっぱりわからない。好ましいと言われることも目の前に現れてみたら実に不快で胸を掻き毟られるような苛立ちを覚える。沸騰した手脚が苛立っているのだ。そして、不確定なそれに対し愛想良く仕方のない事だとして受け入れて、しまいには感謝の辞を伝えることが人生の義務らしい。判然としない。全てが決まらない。定まらない。不確定、且つ全ての物事が保留された状態にある。何一つ決まらない。雑然とした部屋を何処から手をつけていいものやら呆然として、気づけば一日が終わろうとしている。整える暇もない。今思ったことが、明日にはには無価値のようになるのだろうと思えてくる。全てが相対的である。


一個体として生じてしまったなら、それを常に肯定し支える企てを行い続けなければならない…。地面が下にあり、空が上にあるように、ただ当たり前のこととして。このことに関して多くの人は実に成功している。そして何より潜在的にそうあろうという意志がある。がっしりと噛み合った歯車のように太陽の光に愛されていると信じている。彼らは信じていること自体が当面の保証をしてくれることを無意識のうちによく知っている。

だが私は問うてしまうのだ。
今日死ぬことと、三ヶ月後死ぬこと、あるいは何十年後かに死ぬことの間にどういった違いがあるのだろうか。
と言えば、きっと彼らから返答はこうなる。
「いつ死ぬかは重要なことではない。それよりいかに生きるかが重要なのでないのか?」と。

実に至極真っ当な考え方である。だがもしも、ある人が誰もに称賛され輝かしい功績を成し遂げた後に痴呆を患い、介護者からなぶり殺されたなら。或いは糞尿を垂れ流していたなら。またある人が愛し合いその後に破局を迎えて絶望のなか一人病棟で孤独であれば、その人生にどういう定義をくだすことができるのだろうか。最期の顛末は蛇足として隠されなければならないのか。そんな瑣末な人生を語る必要はないのか。それとも肯定的なものだけを写真立てに入れて物語りの棚に飾るべきなのか。多くの人々はそうらしい。もっともらしい理由を創り出し、さも意味ありげに肯定しようと試みる。私にはどうしてもそれができぬ幻想の杭を打ち込めるほどの強固な地盤がない。人や生の醜さについ目を奪われるのだ。

私の中に確かにある感情。彼等が安易に手を伸ばしあたかも魔法の杖のようにその全能さを愉快に周囲にぶちまける様を私はうんざりして聞くのだった。得意げに笑みを浮かべて繰り広げる幻想の確認の趣向。「私はできる。私には家族がいる。仕事がある。財産がある。私には人生を生きてきた経験から培われた自負がある。私は知っている。」そう皆思う。思いたい。だが実際、単に偶々そうできるだけであることも知らずに彼等は鼻高く自尊に満ち満ちている。実に馬鹿げた話だ。歯の抜けた口から腐った悪臭が漂っているのに、嗚呼何故こんなにも風ですぐに吹き飛んでしまいそうな継ぎ接ぎだらけのベニヤ板でできた幻想を名乗る小屋に縋りつかなければならないのだ。人生のみすぼらしい保険。見ろ!奴らの溜め息、くたびれた表情、たるんだ皮膚の薄皮に寒気を走らせて、無理に張り切って奇怪な笑みを浮かべて、震えながら全身の毛を逆撫でする。虫歯だらけの意志。

幾度も意志を削った。削っては埋めて、削っては埋めて。勿論甘い幻想は大好物だったこともある。しかし、寝る前に丁寧に幻想を磨いてやっても虫歯は広がってしまう。朝起きてきのうまで何ともなかったのに舌で意志の上を撫でると穴がぽっかりと空いているのだ。昨日までなかったのに突如として地盤沈下したかのように私は意志に黴が生えたようなきがしていた。意志の力の不足。

いつも私を捉えて放さないのは存在の相対性についてである。兼ねてより多くの先人がこの命題に頭を悩ませてきた。或るものはその為に気違いになったし、また或るものは煮えたぎるマグマに自ら身をなげた。勿論そういった事実に背を向け続ける人々は相変わらず今日もいる。だがここまで時を越え尚我々の根幹にある普遍的である命題もまた数すくなかろうと思う。

誰もいつか在りし日の建物や、いつか出会った人、確かにあった光景、毎日のように生活していた部屋の間取りや、街角の風景。通い慣れた道。幼少の記憶、ある時呟いたこと、外傷的な体験、家族や恋人、財産、彼自身が創り出した意味たち、或いは所有物の諸々。私という相対的で不安定な存在を支え証明するために、欲求に突き動かされ日夜創り出す。その存立せざるを得ないために突き動かされざることへの嫌悪。
誰も彼も通り雨のようなものである。過ぎされば何も覚えてはいない。たまたますれ違い、暫くして忘れ去る。何も残りはしない。にもかかわらず日々、絶えず個体自身の同一性を堅持しようとし続けることの徒労。そう、残らぬと知るが故にか永遠に印そうと渇望する。

「私はある」と。

私は信じきれずにいる。そんなものは存在しなかったと。
苛立ちで全身を掻き毟る情動が湧き上がる。
アルバムでは我慢できない。
物語りでは我慢できない。

驚き。
かつて、現実は私たちが創り出しているのだと知ったあの時の驚愕。数十年生きてきて、誰の後ろにも根拠など何もないことに気がついたことの驚きを禁じえない。
虚を衝かれたような気がした。
貴方が根拠となるのだと告げられた瞬間の戦慄。そんなことがまさか影絵芝居のように行われていたなどと誰が知っていたというのだろう。しかしまた現に今根拠となった人々もまたそうなったことすら、彼等自身知らないで生活しているという事実。彼等のその驚くべき脅威の鈍感さときたら感嘆ものである。そして容易にして根拠を委託して信じているということ!
根拠、依拠しうるもの。断定。「だってアレにそう書いている」「規則だから」法律。あと何年か機能するらしい法。「そうなっているんです」。そうなっている?人々には疑問は皆無である。法は法であるが故効力をもつ。彼、彼女等が入手して見せ合うものは何処から流れてきた出所不明の根拠である。私はそれらを読み込むだけの気力を持ち合わせていない。たしかに彼らが言うように確かなものとの闘争は気が滅入る。人の口から出てくるのはまず決まって「そんなことより」である。だから私も言葉を発することがなくなってしまった。
確かにあの諦めに似た享受、快楽をもたらす蝶がひらひらと舞い寄ってくるその時に、腹ペコで目の前の美味そうな料理を食ってしまえばいいではないか、、と思う人々の心情も良く分かる。だが、嗚呼しかしもう何もない。それで良かったとは私は決して口が裂けても言わない。享受、それこそが先延ばしの逃避以外の何ものでもないように思えるのだ。諦念の観。

目の前のものたちは次の瞬間に失われ別の何かに変貌しているにもかかわらず彼等は相変わらず連続性を信じて疑わない。
何故、夜寝床に入って眠り朝になって目覚めた時にまだ自分なんだ。べつの他の誰かでもいいような気がするのに何故ここにとどまり続けなければならないのか。
我々は連続性を問わねばならぬ。

人々が大勢の群衆となって整然と並んでいる写真の光景に強烈な吐き気を覚える。グロテスクだ。ちょうど沢山の蛆が湧いているような様を吐き気を思い浮かべる。頭の中に重い鉛でかき混ぜられたような悪寒が頸筋をはしる。また何よりも、それが自らが他ならぬその一つである事実としてあることに対する嫌悪感。ぞっとする。
個々がそれぞれに別個体であり互いに腹を探り合う。
人々は必ずと言っていいほどにまずは否定で始まる。すでにある主張が発言される以前に否定はその主張の出現を待っている。事が出現をするやいなや早速否定に入り、事後に理由を始めてどこからか拾ってきて埋め合わせをするのである。重要なことは理由ではない。否定できるかできないかだ。関係性の真髄とはここにある。決してそれが単に醜悪で反道徳的だと言ったことに言及しているのではない。つまり関係性の動態とはそのような現象でしかありえないというわけだ。


私にはわかっている。自分がどのように振る舞うのか。総ては想像の段階、暫定的であることによってしか快を見いだしえないということを。そして一つの計画が実行されてしまえばそれは最早全く価値のないものとなる。そうして次なる計画を幾つか持て余そうとするのである。そうなることは目に見えている。決断より想像。実行より計画。そうやって一歩たりとも動きはしない。何年何十年、何万年。まだ同じところにいる。不毛。彼らがいとも容易く浸入する幻想の領域に私はずっと近づけないでいる。不可抗力の疎外者。そしてやがて諦めた。彼らの執拗な牽制。私は同じところに留まることになって、それに耐えるだけの日々に突入した。この閉鎖性。既存をただ下水のように垂れ流し、生産的なことへの投資をも節制し、摘み減らす思想の不毛さといったらない。神が笑い転げて嘲笑して罵声を浴びせ掛けるが、我々は耐えて忍んで登る他ない。それ以外に方法がない。鬱屈したエネルギーの塊のようになる。時にコミュニティが消滅するが如く人もまた例外ではない。


私の周りでは奇妙な状況が生じる。生来の意思の薄弱さと幻想に対する我が文化圏での無価値さが相俟って求めるところは少なく剥き出しの精神になった私は、そのまま外界へと歩み出して壁にぶち当たる。そこには暖かな幻想に身を包んだ人々が暮らしていて、会うなり「何故貴様は衣をまとわぬのだ。早くまとえ。」見るに堪えぬとんだ無知で馬鹿な奴だといったふうに罵倒されるのだった。彼らの一人は「貴様の愚鈍さはまるで幸福だと吐き棄てた。」どうやら私の剥き出しの精神がまた彼らの文化圏での幻想に対する侵害を引き起こしているらしいのだった。そこで私は私なりに幻想を探して身に付けようとすることを考え始めるのであるが、剥き出しの精神がそれを許さぬことと、これまた奇妙に私の文化圏において管理される幻想においては違法な行為のように取り扱われるのであった。つまり私の文化圏では幻想を探すなどもってのほか、「貴様が安全かつ幸福に暮らしていけるのは無駄に幻想を求めぬことなのだからこの状況に感謝しろ」というわけである。」よく我が文化圏では次のように語りかけてくるのだった。「でも、お前は幸福だったよなあ、そうだろ?」と同意を求めてきた。既に「でも」で始まることは明らかに文化圏が私の離反を意識している証拠であった。そうして私がどう感じているかを説明し出すのだ。私がそのように思うべきだと。貴様の気分を代弁してやると。他者の主義、意思とは必ずといっていいほどそれが含まれていた。

 

ながらく自己という存在に悩まされてきたがもう十分過ぎるぐらい考えた、そして何もかも、徐々に真実が露わになって、わかれば分かるほどに健全性から遠退くのはまったく当然の理に適ったことだった。見れば見るほどに苦悩する。健全に生きるのであれば目を閉じ耳を聞こえぬふうにせねばならぬ。それを推奨する。あらゆる関係が私を意味によって制約し続けるけれど、すべてをこれで断ち切るつもりである。つまりは死ぬことによって。また次なる鎖が用意されていようが、取り敢えず今の鎖から解き放たれたいと思っている。もうこれ以上はない。もう少し、もう少しと延期させてきた事態に決断をくだす時がとうとうきたのだ。それが今だ。
何度だって言う。これ以上はない。これ以上は最早ない。もうこの先は存在しない。前々から幾つかの機会を検討してみたが今回がそれに最適な時宜ではないかと思う。生は私には荷が重すぎた。今まで生きてきたことも辛うじてすり抜けたに過ぎなかった。ずっと遡りすべての複合的な関係性が今、この様な行いを導き出した。
私の微々たる意志の僅かなる結晶の粒子が唯一行いえる決断。私にとって最もかけがえのない決断。辛うじて他者から僅かなる意志を守り得る最期の決断。私という幻想が一つ先のバスに乗っていったようなものだ。

だがその僅かな意志もまた僭主においては許されざるべきものであるのであろう。原理の法に抗うものは容赦せず罰す。数多くの歴史が物語る自明の理である。それでも人間、或いは生命の意志とはそれを乗り越えようと足掻くものである。原理は改訂されることを意志されることをすでに含んでいる。原理は原理さえも乗り越えるものである。

 

皆が口にする瑣末な幻想に関する話も、うんざりさせられる。彼らは天から降ってくることを期待しているらしい。そしてそうならないことにため息を漏らすのだ。たしかに多くの幻想と兌換できる権利を得ることができるのであれば喉から手が出るほどほしいのだろうが。だが、もしも仮に宝籤に当たったとして、それがすべて仕組まれていることなら、それには何も価値がない。賭けは何も意味がない。すでに賭けとは呼べない。賭けとは主体においてそれが未知で未だ何らの存在しない未定、必然でないことが想定されてなければすべては意味のない所業になりさがる。つまりはただ予め定められた義務の遂行として行なわれる。そうなると私は何もかも我慢ならない。結局は掌の上を無様に転げ回っているだけなのだという視点が頭から離れない。実際そのようだから生はまったく堪らないのだ。ただ引き摺り廻されるだけだ。お前は自由だ。幸福だ。但しそれは奴隷として可能となり得るのだ。私は私を追い抜かなければ。私に追いつかないと何もかも生じることがない。


深夜の道はただ広く、昼間動き回るような人影もない。空虚で浮遊した自由な拘束から解かれた不思議な痛快さや全能さを感じさせる。あるのは点滅する信号ばかり。意義を契約者の不在によって一時的に失った静寂は奴隷の自由とは種の異なる自由である。昼間は誰もが秩序のことを危険から守ってくれる安全ことを望みながらも、道の先まで延々と並ぶ光景を煩わしく思う。制約するものは実体にかぎらない、原理法則による力によるのだと知るからだ。しかし、深夜という契約の力が弱くなることによる解き放たれる制約に僅かに解放感を得る。


気の遠くなるような時の中で誰もがその不確定さを恐ろしく思ってきたにちがいない。故に未知の何かに物語りによってその恐怖を払拭しておかなければならなかったのだ。墓や神話がそうであるように。漬物石だって物語りとなるはずだと。何時も終わりを体験し続けているような感覚を繰り返す。
幻想を演じ続ける生。疲労。倦怠。すべてに辟易する。

すがるものは日用品のガラクタから歴史に遺る記憶まで。生み出し続け、世の中には余りに情報が散乱して足の踏み場もない。それも無駄なものが大半である。その中から本当に価値あるものを選り分ける作業を数十年費やすことに強いられるわけだから全く馬鹿馬鹿しいことである。それらにアクセスできることを幸運だと思ったことなどない。どれもこれも雑音だらけで混乱の内に生を済ませてしまおうというのがある種の知恵らしい。
故に徹底的に冗長、蛇足を避け、可能性が生み出してしまう余分で過剰なものをそうでないものと徹底的に選り分け切り捨てる作業に追われる。延々とそれだけに労力を費やす。何もかも捨ててしまって。

私は本当に驚いている。生の無価値さに。沢山の物事を見るほどにそれまで認識していたものがまったく誤ったものだったのだと深く痛感した。それまで信じていたことはまったくの幻想だったこと。私は支えられていたのだ。唯々、現実的な現実、リアリティという幻想に。また明らかになってゆくものは生において漏らすことなく政治的でないものは何ひとつありはしないし、それらは空虚な自己の存在を確かにする多くの道具、杭のようなもので、そのようにして毎日を意味付けしてやっているのだと知った。自らの根拠を懸命に措定しようという試みの連続体。根拠として構築された暫定的な秩序、まるで信号が道の先まで延々と並ぶ光景。そして私のやっていたことといえば秩序を受容できずに、逆に自らの足元を掘り続けて、挙げ句の果てに健全性を失ってしまったということらしい。自らの掘った穴に堕ちる。だが、だからこそ、それ故に私は老人の悲哀を痛ましいほどに知っている。何しろそれこそ人の特徴そのものであるからだ。我々は根源的な人間の心象を想像できているだろうか。
それにしても何故私は私自身を贔屓しなければならないのか。私が私自身を守る責務を負わねばならないのか。そして誰かが私の代替者となって生きてゆけばいいのにとすら思う。

私にとってこの世の全ての刺激が余さず恐ろしく不安を伴い、精神を掻き毟るものであり、私が小さいのか、或いは不安が大きいのか判然としないけれど両者に大きな溝があることは確かなようである。
当時幼少期よりはっきりと認識するだけの知が私になかったにしろ、無意識のうち、余りにも大きい不安がひっそりと背中の後ろに棲んでいた様な気がする。ずっと不安が私を見つめていたのだと気づいていた。悪寒が背筋を凍らす。暗い海底を彷徨う私に、鉛のような重さがまとわりついて、全てを不気味なモノに変えてしまうのだった。目に映るものは脆弱で煙のように消え去って何もかもが私にとって不定形で不確かな不安を与える。灰色の空。黒い海。暗い山影。何か不吉なものとして景色は喪われたものとしてしか享受できなくなってしまった。底、それがそもそも上なのか或いは下なのかもよく理解できない生態的な基準に関する異常。宇宙の胃袋の中で赤子のように浮遊する。それでも自己の健全性が崩れ落ちつつあっても尚真理だけは確かであって欲しいと願い追い求める。
数十年の絶望が私の内腑を腐らせ干からびさせてしまった。腸は食い散らされ空っぽだ。死だけが私の中で唯一残された意志として転がっている。みんなだってそうだろう、そうに違いないと思うけど心の声に耳を貸さないのだ。彼らは不気味なものを雑音で遮断し続ける必要があることを本能的に知っているのだろうと思う。私にとっては消える、消え去ることだけ、それだけが希望的なんだ。

私は予てより幾度も繰り返し考えていた一つの残された意志を実行しようと機を見ている。そうして丁度いい頃合いを見つけている。意味を突っ切るか消え去るか。どちらかの結果となるべきものなのだ。

私が問いたいのは、意味を創り出し措定することで現実的な幻想によって自らの存在を支え肯定させているわけだが、その素材がそこらに転がる瑣末な日常的なものであってもいいし、逆に大そうな事件であってもいいわけである。ただ彼らにとってはどんな意味にしろ創り出すことで良しとすること、意味を問うのではなく、意味を措定することばかりに真剣になっている。そのことに大いに疑問をもっている。生の核は意味を問い続け、突き抜けなければならないように考えるのである。たとえそれで私の自己同一性が崩壊しようとも。何故探し続けるのかと問われれば、恐らく当初に意味を措定できなかったのではないかという疑いがある。それは初期設定としての保証となり得るべきものだと思う。

存在を考えるとき、強制収容所を思い浮かべる。存在者は強制収容所に縛られたような存在だ。ただ、重要なことはここでの存在は被収容者のみならず収監する者の視点も同時に存在の中に矛盾してあるということだ。被収容者として脱獄は許されない。義務の履行秩序に服することをひたすら護ることを強要される。脱獄は存在の消滅の有無にかかわる。にもかかわらず同時に収監する者にとって何億人といる被収容者の一存在に何らの価値も抱かないことを我々自身が重々知っているということだ。存在とはその葛藤状態にある。人生の重大さと馬鹿馬鹿しさという相反する直感はここからくる。秩序を遵守しなければならないのに価値はないという視点を同時に有しているのである。二つの視点が必須で存立しているのである。これは契約関係にも置き換えることができる。
存在とは一方向のみでの存立の仕方だけではあり得ないということ。
また、想像の領域に生きざるを得なかった虚無の表現者たちの生い立ちが明確な責任をもった父性の命令を受ける環境に恵まれなかったことは必ずしも偶然ではない。彼らは全く秩序や規範に隷属する機会を与えられず、全能な管理側の視点でしか生きることが不可能な困難な状況で耐え難い存在になってしまった。即ち実感を伴わない。逆に被収容者は実に健全に責任に疑いを挟むことなく躊躇なく事を行える。太陽が根拠になるかのように。想像領域にいきる人間は責任を負うことができない。その領域では全ては観察者としての相対的な立場しか与えられずにいる。よって自らの根拠を探し求め続ける宿命にある。
純粋なるメッセージ。因果関係をわからせる点。

二つの否定性がある
コミュニティでのヒエラルキーもまた言語の構造と良く似た現象で、それぞれの語が互いに他の語との差異、否定性により関係性は流動してゆく。常に単位は相対的である。ソシュールシニフィアンシニフィエの結びつきとシーニュの存在は恣意的なものだとしているが、より他の語との差異を強調し、他を否定することで何よりシーニュ自身のアイデンティティを強化することに寄与する点などまさに存在の在り方と酷似している。これが他の存在に関する否定性である。

また自己に関する否定性について、
病院の待合室でS氏が名前をN氏と呼び間違えられたときに、S氏が顔を真っ赤にして憤慨する理由は何処にあるのであろうか。それは恐らく記号としての取り違えが問題なのではなく、あなたはあなたではないという言明が含意されているように感じてしまうからではないのか。つまりシーニュAのシニフィアンシーニュAのシニフィエと合致しないからではなく、シーニュAのシニフィエシーニュAのシニフィアンではないのだという否定性を含むことで、措定されようによってはアイデンティティの存立を脅かされかねないからだ。存在存立とはシニフィアンを死守するための攻防である。安易にでも主義や名前ををつけたがったり、名を重視するのもその作用を、効力を良く知っているからに他ならない。
ある意味ではここでシーニュの存立条件の前提としてシーニュその内部にそれ自身の否定性を含んでいることを表している。シニフィアンシニフィエの結びつきは恣意的ではあるがあることはある。ただ、シニフィアンが生み出すシーニュという相対的な像がそれ自身でないという事実を常に前提として含んでいる。自己自身であると同時に自己自身でないと云っている。
まさに恐怖とはそれに基づく。私が私であるということを奪われるのではないかという恐怖。最も根底的なものではないのか。

安易に分節された語がまったく括りが機能的ないことで新たな歪みと混乱をもたらすことになる。非機能的シニフィアンを短絡的に無尽蔵に生み出すのではなく、それらを機能的な分節化を行う骨の折れる努力が必要らしい。その意味で人はより機能的に妥当性を持ったものに世界を変えられる。ただこれまでもそうだったように途方もない時間を有する。

落ち窪み黒ずんだ眼窩から色を失った瞳が覗く。無気力、不安、猜疑心に満ちた反抗的で拒絶する眼。人は去っていく。人のもとを去っていく。どうしたら良いのだろうか。このまま灰色のフィルムのように焼き付けられ、先人たちがそのようだったように同じく墓で子や孫たちが来るのを待つのだろうか。スクリーンに映し出され同じ動きを繰り返しす踊り子のフィルムの残像がいつか終わるのを待つのだろうか。脳裏に焼きついたイメージ。それに一体どんな意味があるというのだろうか。そんな退屈な日々は終わる。いつか、いつの日にか窓から偶然に光が射し込みフィルムが色を取り戻し、フィルムに投射された世界を飛び出して何処へでも飛んで行ける。きっとそうこれから全くの想像の世界で跳ね回ることができる。そう考えてみたりする。永遠の未成熟のようだ。


でも私達が考える遠い過去や未来や宇宙の果ても、何処かすぐ私の傍にある様な気がするのは単なる錯覚なのだろうか。
何時も牢獄に閉め出される。でも時間は絶対に味方するはずなんだ。私が首から下げた鎖で振り回されるのをあいつら豚小屋から笑って喜んで嘲るけど。それだけ孤独で過酷な道なんだ。
誰一人として余すところなく狼の群れである。赤子も老人も余すところなく全ての存在が何もかも。意図しないことなど何一つとしてない。それが嫌だ。自己を消滅させたい。オレがおかしいのならそれでもいい。そう、それでも運命は消え去ることをゆるさない。関係性、否定性による自己肯定。存在。運命が強いる。オレは消える。消えてみせる。何が何でも。何もかも放棄する。所有しているもの、記憶、財産、諸々、自己。
籠り声がオレの腸を掻き乱す。
物事を割算のように咀嚼できると信じ込む狂人に引き摺り回されることほど面倒なことはない。彼の理論に誤りがあると解らせてやる術がなく、ただ、老いた馬車馬のようにうんざりしながら荷を運ぶ。狂人は喜び勇んで鞭を鳴らし歌まで歌って上機嫌である。ドン・キホーテ、、、。全く彼と人生の大半を過ごしてきたことは不幸以外のなにものでもない。使えないガラクタを大事に運んで何になるのか。オレとは存在した価値すらない。全てはじめから消化試合のために仕組まれて踊らされていたのだ。気違いが開く座談会で飛び交う雑音が頭の中を掻き混ぜて全てを腐らせる。サンチョ・パンサ
オレは動かない。白痴に揺すられても何も言わない。乞食のように通り沿いのビルの壁に寄り掛かってもう動けない。全ては失われてしまった。弄ばれ、運命に弄ばれ腸を掻き出されのたうちまわる人々。耐えがたい存在。
醜悪、堕落、外傷。震えの止まらぬ手、埃まみれの部屋の隅。汚れた毛布。使い切った意志。腐った肉塊、干からびた皮、粉砕されて散らばった骨の残滓、残骸。契約について。最も重大で危険なものであると警告されていたが群衆の頭にはこれっぽっちもない。嘔吐。眩暈。何もかもが相対的で彷徨うばかりである。確かなものにすがるために他人にへつらい、迎合し、「そうだ、そうだ。」と雄たけびを上げて乱痴気騒ぎをする。酒瓶を持って笑う。卑しい顔に開いた口に見える虫歯と醜悪な垂れ下がった頬の皮膚。そうであってほしい、でもそうでないことはわかっている。その事を忘れたいという叫び声。醜悪か、否か。一方で醜悪で一方で醜悪ない。
わずかに絶対的なことがあるとすれば、人は責任を放棄したいという意志が根底にあるということだ。統合は常に幻想だ。事実は分裂でしかあり得ない。

追い求めるは、
健全な幻想よりも、不健全な真実。

何故なら私個人には幼少期より幻想は生起しないものだったからだ。幻想に没頭するには私は弱すぎた、糠に釘とはこういったことだ。

可能であることとは既に不可能を前提にしてしか生じ得ない。そこで存在は常に不可能を覆う幻想のような在り方でしか存立し得ない。存在とは存在そのものを否定するものを常に含んでいるということだ。存在とは存在そのものに対する否定性と他の存在に対する否定性によりはじめて存立する。差別化など。つまり絶対的存在はあり得ない。常に存在とは関係性によって措定される相対的存在である。

前提としてここで云う幻想とはリアリティ、(現実性)のことであり、実体(現実そのもの)ではない。

存在とは他の存在に対し幻想を提供して貰うかわりに、他方で幻想の保証者となることである。あらゆる場面においてそのように効力を及ぼし合う。AはBにAの幻想を支えて貰うかわりにBの幻想を支える。それが現在では多くの幻想を代替してくれるある程度のクオリティのある道具を創り出しつつある。もはや実体はさほど重要な投射版ではなくなりつつあるようだ。

物語の焔が消えぬように薪を火に焚べる。焔の灯りが潰えぬように。先人たちがしてきたように薪を焚べる。
私はその力にはなれない。私は私の根源にある意志を切実に実現するほか努力するだけだ。
おれは消える。真の無に吸い込んでくれ。全ての関係からの忘却。消してくれ、私を消してくれ。また、永遠に消え去るためにはどれだけ多くの労力が費やされなければならないかを知らねばならなかった。通常では考えられないような部類のコスト。

しかし、全てが相対的だと言い切るにもかかわらず、「ねばならぬ」と絶対性を考えている私がいる。私は執着している、古い関係性に、皆が捨て去って新たなものを創り出そうとしているのにそれに対して困惑している。何より私が古臭い保守的な人間だったのだ。私は取り残された。残りは引くも地獄、進むも地獄のように思えてきた。
自分は沢山の歯車たちの中に誤って落ちた石の塊のようなものだ。全てを停滞させる。滞らせ歯車を狂わせる。私自身でもどうしようもない習性なのだ。私の存在自体がもはや困惑以外の何物でもない。私は長らく誰もに届かない場所に消えてしまいたかった。そうしてその方法を私なりに考えてきた。私はいつも直接的とは全くいえない人間であり、あまりにも間接的な手法でしか存在できないのだった。何もかもが回りくどく、要するにすべては出会わないための方策でなされたのだった。溜息一つつくことができるのならば、窒息せずに生きてこれたろうに。全てが虚像の存在。
誰もが幻想を兌換する権利を欲する。可能性や虚無か彼らの野心を燃え上がらせ他者と喰い合い、他者が自らの踏台たらんことを望む。日々の何もかもが馬鹿げた馴れ合いである。いつでも裏切る用意があることを知りながら馴れ合う。

虚実も二つの次元に、領域に分けられる。つまり表象にあって表される領域と、表わす領域とに分けられる。片方の領域の虚実をもう片方の虚実と混同するとややこしくなる。これはちょうど健常者と神経症者の関係と同義である。彼らからみれば私は嘘つきだが、私からみれば彼らは嘘つきだ。そしてそのどちらとも正しい。同じ領域の嘘について述べているわけではないからだ。

元々根源的なものは分裂的である。そして創造的なものはそこから生み出されてきた、既存の状態をより機能的で関係性が均衡のとれたものに組み替えて新たな状態を創り出してきた。ただ、分裂的状態を一個体、一文節、一組織が常に維持し続けることはそれ自身にとって耐えがたい状態である。何故なら分裂的状態は確かなものを保証してくれないし、絶対的ではなく常に相対的で滞っているからだ。分裂的状態は歴史的に観ても好ましくは捉えられてはいない、むしろそれはモラトリアムという苦悩、多くの積み重ねられた留保であり、人格崩壊を背後に抱えていることが考えられた。その結果追い求められてきたことは諦観的な状態、いわば統合されたような確かな保証があり平穏である既存の状態である。
だがこれから我々は多くの幻想がこれまで以上の速さと正確さをもって組み替えられていくことを目の当たりにするだろう。何故なら我々は我々の望む意志のとおり代替者を生み出すことに成功したからだ。もはや人は統合も望まない。人は進んで統合されることを拒絶するであろう。

「どうすればいい」幾度となく周りに対して口にした質問である。
だれに訊ねてもこたえてくれない。うやむやに先延ばしにされるのだ。それともおれ自身がそれを望んで彼らに誘導を行っているのかもしれぬ。いや、実際そうなのだろう。答えが出ないことを期待して質問しているのだろう。満足のいく答えはないどこにもない。
始めと終わりはいらない。この世に最も必要でないものだ。挨拶とはまさにそれを象徴する行為だ。だから心底挨拶が大嫌いだった。彼らが最も信頼する?幻想。関係性の確認行為らしく。だから素通りしてしまいたくなる。そんなものなくたっていい。知らぬ間に入って、気づかれないうちに消え去る。ちょうど電車で乗り合わせたに過ぎぬように。どっちみちすれ違う運命においては絶対的であって確固たる印象を与えるものは全てすれ違いということをよく知ることが重要だ。きっと何処かの人が嘘だと 告発するかもしれない。でも重要かつ誤解与えてはいけないのは、虚実の領域も二つあることを伝えておかねばならぬ、その点を混同してならない。片方の真実は同時にもう片方においては虚。


寝とぼけた顔で「愛してる」「決して忘れないよ」などと出来損いのドラマの台詞のようにリアリティをアルバムの中に詰め込んでどうしようというのか。わかっているくせに。既に息子や娘達はみんな独立してアルバムの処分と行政的手続きに労するというのに。私は苛立ちたまらなく憤懣をぶちまけたくなる。目の前で幻想の詰め込まれたスーツケースをひっくり返したくなる。「すべてガラクタだ。」すべて粗大ゴミのようなものだ。大量の産業廃棄物。メリーゴーランド横のゴミ箱に べっとりとついたソフトクリーム。散らかったゴミ。宴の後。ゴミを漁る浅ましい黒い烏。黒い猫。
来る日も来る日も俯き加減で空返事をする。
自分だっていつかやってくる運命なのに。いつかやってくるのに。無様としかいいようがない。人びとの顔。顔。顔。
メリーゴーラウンドには魅了されることができる。
いつか、十八世紀に世界のどこかで着古されたコート、酒に酔い潰れた日々の生活と錯乱に薄汚れた染み跡を残し、それは何処へいってしまったのか。いつもそのことばかりを考える。それにばかりしがみついてしまって、あれは今何になっているのだろうと。何処かで既に焼かれてしまったのか。「髭を生やした老人がよく着てたんだ!」「しらないか?」
誰に訊ねても「さあ、知らない」挙げ句の果てには「それが一体何になるんだ?」と言われてしまう。でも あれの行方がわからないなら私の人生の行方も無いと感じてしまう。何にも無い。崩壊前の国家と何も変わらない。明日あの人はこの虚偽の館を出るというだろうなと思う。こんなところは嘘で塗り固められた空間で皆が、繊細な異なる周波数でヒソヒソとお互いの懸案についてワイドショーの醜悪な話題を酒の肴に盛り上がっているのに。私はまだここにいる。煮詰まったこの空間に霧散したただの菌のようになって。ただ、私はここから脱出するにしても中から出るほかないのだと理解している。外の世界に密告する他手段がないのである。私を解放せよと。外界を動かさずに私は動けない。かれこれこれで何通目の手紙だろうか。誰も読みやしない。現実が現実的なものに追いつけない。現実を排除できない。掛け損なわれたリアリティ。時計やバッグや車や、写真、物語。決して保証してくれないガラクタに囲まれて呆然とただ時が過ぎてゆくのを待つだけの存在。風呂にも入らず汚れたままベッドの片隅に毛布にくるまって震えて眠っている薄汚れた骸。自分の存在を忘れてしまいたい。

しかし、我々は長年にわたり足踏みしたこれまで頭打ちだった論理を浮き上がらせるのに粗末な「言語」という道具以上に新たな道具を手にしてこれまでの限界を易々と超えることができるはずだ。きっと我々はもっと現実的、リアリティの中に入ってゆけるようになる。
影絵芝居のイメージは我々の分裂した四肢を統合しあらたなイメージへと昇華してくれるだろう。

私は渡さない。決して誰にも渡さない。関係性の抹消こそが私の私以前の意志に違いないと確信しているからだ。あらゆる過程があるとするならば甘んじてそれらを受け入れよう。向かう場所が消え去ることであっても。
関係性を操作することによってほか自らを動かす術を知らず。そのことばかり考えている。
法の下に生まれ法の下に法により法へ抗するように要求され法の下に厳粛に裁かれる法、茶番劇。

いつまでも「今」がやってこない。ただ間延びしただけの「未来」や「過去」だけが広がり続けていく。益々私は押し出された存在のように独りで漂ってしまう。

また運命を呑み込まなかった。私が運命に抗っているのか。はたまた運命が私に抗っているのか。周囲が呟く。「あいつは、もうダメだ」
「いい加減、法に従い給え」運命は私の耳元で私を諭すのだ。その意味は次の返答を期待している。
「いやだ」
例題通りに応えてみせる。運命は薄気味悪い笑みを浮かべて、「ザアマアミロ!」といった具合にはしゃぐのだった。
法に従う?従う以上に従い過ぎている。我々は誰より従った。その純朴な性質故に法に抗う法を遵守させられる。それも法の下に織りこみ済みだ。

強迫的。損な生き方だ。自己のあらゆる種類の不安の可能性を解消しようと、確認して非生産的な日常を送っている。目先の利益を生み出さず。ある程度の諦めをつけ目をつむって受け入れてしまえば大いに楽であるのに。だが何かを失った時にこそわかる。我々の核に何があるかをみるはずだ。
強迫的な生き方は今という瞬間を腐らせ答えのない逡巡に我々をとどめおくのである。故に実業家は、現実主義者は云う。目の前のことだけに集中しろと。そうとも我々は目の前の幻想をより現実的なものとして食ってしまえば新たな役に立つものを生み出し社会の発展に寄与し、人類の進化に貢献する。もし考えなければならない時がくるとしてもその時考えればいいのだと思ってしまえばいい。人生は快活な健全性を取り戻す。物語り、私という人生の主人公として生き抜ける、そして一冊のアルバムになっていつか思い出されることもあるかもしれない。


ひとつの語は複数の意味を持つし、新たな意味を持ちうる。あたかも天上から海中へ射し込む光がその入射の角度によって映し出す海底の色を仄かに変化させるように、それらは関係性の乱反射によって常に相対的な存在なのだ。

私は人が死を目の当たりにする恐怖とそれを掻き消せるだけのありったけの快楽とその螺旋
に落ち込んでいくという自嘲感に、嫌悪と開きなおる振りをし続けるのだった。私は生きていないと逃避する。どこまでも逃げる。何故ならば生きている世界はリアリティのないものだからだ。我々はそこに落ちた僅かな現実的なものを血眼で探している。
光に誘われるようにそれは遥かに現実よりも現実的なのだ。皆がそのために生き、そのために死ぬような現実的なこと。

彼らは僅かな現実的なもので満足しているようだ。しかし、それも彼らの頭の片隅に全く疑いの陰が映りこまないわけではない。ただ彼らはそれを映し出してやるだけの機会がない。彼らは僅かで粗野な現実性を充分に重みを感じているのだという。瞬く間に無くなってしまうような光にである。それを聞いて私は頭がおかしくなりそうな気分になった。何万年の疲労の蓄積がとうとう堰を切ったようになり限界というものを感じた。頭の中が鉛のようにずっしりと重くなって重力に抗う力を永久に失った。文節を失って裏をも通り越して落ち続ける。

重要なことは慣性の法則云々の問題ではなく始まりと終わりであること、つまり事象と名付ける分節化の問題なのだ。だから私は始まりと終わりが、分節が或いは境界が嫌いで堪らないのだ。始まりと終わり、全てに通底するせざるを得ないもの。それらが外傷的過ぎるのだ。だから始まりもなくぼんやりと存在し誰も知らぬ間に消え去りたいと思う。だがそれに反して存在とは分節を明確化しておきたいものだ。何よりそれが不確かな現実を確実なものにしていくためのリアリティを生む道具となるから。だが私からすればそんなものは実際常に相対的な存在だからと実感できずにいる。
そうして、私はこの船を降りれないまま決まった時間がくると罰せられる。来る日も来る日も、ただ罰せられる為だけに存在するような存在であり続ける。もはや私の中には恐怖と退屈の感情しかない。
誰それの理由の対象となってしまう。彼等が私を船から決して降ろさないのは理由の生贄にしてしまいたいからだ。

ある日の夢、「可能性は既に用意されている。我々はただ演じるだけだ」という夢の中の私の叫び。

運命という土砂がわたしの中に流れ込む。
覆そうとも試みた。しかし、だめだった。
私の負けだ。


時が来た、ついに来た、永らく待った時、その時が。刻々とわたしに向かっている。光を失った私には解る。その足音で。彼がもう扉の前まで来ていることを。重い靴が地面を軋ませながら亡者のカラダの内に響いてくるのが聞こえる。

我が存在がはなから存在することを前提としていることがわからない。私は滅びる。全ての企てを放棄する。私を辞める。


誰にも届かぬ
すぐにかき消される痕跡。